『名前を言わないと出られない部屋』
 


私はその文を見た瞬間、思ってしまった。
 
一言も『本当の』と書いていないな、と。
名前なら、誰でも良いのだと、思った。
 

横にいた彼、ミケは言った。
『三宅陽』と。
そんな彼の言葉は、嘘のような本当のような。
そんな彼に、自分の本当の名前は言いたくないな、と思った。どうしようかと悩んだとき、私の頭に過ったのは、この変な部屋に来る前の記憶だった。


『お前……名前は?』
“そいつ”の手は、柔らかかった。心地いい感触が、伸ばした右手に触れる。
『……お前は……良いね。私は──お前に、なりたい』
声に出た小さな願いを笑うように、目の前の猫は目を細めて、透き通った声で鳴いた。
『……首に、ネームプレートついてる。飼い猫……かな。へえ、お前、『梓』って、言うんだ。良い名前だね』



こんな簡単で、思いつきでつけた名前。

ミケは、あっさりと信じたのか、私のことをすぐに『梓』と名前で呼ぶ。
思いつきでつけた名前、本当じゃない名前、というのは意外と反応できないもので。
呼ばれるとき、返事が遅れた時もあった。

言わないといけない。いつか、伝えないといけない。
何度か、そう感じていた。わかっていた。
 
だけど……。
 
『梓』
 
そう……ミケが、私を呼ぶ声が、どこか心地よくて。


気づいたら……言うタイミングなんて、とっくに見失っていた。

 
「……何度か、おかしいなって、思ったことはあった」
ミケは、静かにそう言う。
「……呼んでも、返事しないし。考え事してた、って言ってたけど……どこか変だって思ってた」
「……うん」
 
私がそう小さく返事をすると、ミケは「ぷっ」と、吹き出す。
そんなミケに、私は少し目を丸くする。
 
「……なんで、笑うの?」
 
普通、怒るんじゃ。
 
「えー? だってさ、すごい、梓らしいと思って」

そんなミケの言葉に、私は目を見開く。

「あ、梓じゃなくて、雪か」なんて、上を見上げながら呟くミケ。
そして、自分で言いながら、ミケはクスクスと笑う。そんなミケを見ながら、私はただぽかんとしていることしかできなくて。ミケは、私を真っすぐと見つめる。
 
初めて会ったときと同じように……強い、髪色と同じ瞳が、私の瞳を捕らえる。
 
「雪、俺は名前なんて正直どうでもいいんだ。雪が、梓って名前だろうが、なんだろうが、俺にとってはどうでもいい。重要なのはそこじゃないんだ」
「……じゃあ、何が、重要なの?」
ミケは、目を細めて、優しく笑う。そして、優しく、私の手の上に、自分の手を重ねた。
 
「雪が、ここにいることだよ」
 
ミケの言葉に、胸がギュッとなるのを感じた。
「俺の隣に、雪がこうやって座っていることが、俺は何よりも嬉しい。雪とこうやって、話せることがめちゃくちゃ嬉しい。名前なんて、どうでもいいんだ」

「……じゃあ、私を……嫌いに、ならないの」

こんな嘘をついて。
出会った最初に、こんな嘘をついて。
 
「ぷはっ。こんな嘘で、嫌いになるわけないじゃんっ。俺がどんだけ、もっと酷い嘘ついてると思ってんの? こんな嘘、可愛いもんだって」
 
そう笑うミケに、私も自然と口元があがる。
 
「もっと酷い嘘って、ミケ……どんな嘘よ、それ」
「んー? 秘密」
 
そういつもの仮面を見せるミケに、私はどこか安心した。
そんな私を見て、ミケは「行こうか」と言って、立ち上がる。