「それで、ボイコットしてこんなところまで逃げて来ちゃったの?」
 
 
 夏の真っ盛りを過ぎた頃、近くの公園ではまだ蝉の声がジリジリと聞こえてくる。
 ラズベリーカラーの屋根のまるで宝石箱のようなその小屋の扉を叩けば、彼の目に映る光景は、雑然と置かれた機材やダンボールの箱の山と、泡立て器片手に楽しそうに鼻歌を歌うあの娘の背中。ボウルの中で生クリームがカシャカシャとリズムを刻む。
 
 これまでの経緯を彼が淡々と話すと、その娘はさほど興味もなさそうに鼻歌から間の抜けた声を漏らした。
 
 
 
「パリコレだかプリッツだか知らないけどさあ、ボイコットなんかしちゃって、フランス人もびっくりだよ。慧はバカなの?」
 
 人を小馬鹿にしたような大きな黒目がこちらを振り返る。肩にかからない短い髪が、昔から少しも変わっていない。いつもエプロンをドロドロに汚してお菓子を作るところも。
 
 
「プリッツって言うあんたも大概よね。何よ。人が久しぶりに顔出してあげたら文句ばっかり?」
 
 壁際の即席テーブルに腰を下ろした彼は、小さく反撃した。腰まで艶やかに伸びる髪をなぞり、クロスした膝に肘を乗せ、呑気に手を動かすその相手を威嚇する。
 
 雑然とした室内で、歩き回っていたその娘はピタリと立ち止まる。その娘は憮然とした態度。何やら言い足りないことがあるような態度だ。
 
 
「こっちの台詞だよ。一緒にパティシエになろうって約束して専門学校に入ったのに、突然辞めてモデルだなんて、しかもフランス? パリコレだよ? 今しがた聞かされたんだよ? わけがわからないよ。しかも何そのボロボロの雑巾みたいな格好……」
 
 
 
 舞台衣装のままボイコットしてきた彼に、混乱するのも仕方ない気はするが、それにしてもパリコレの衣装にボロボロの雑巾は最悪だ。本来はダメージの酷いデニム生地の衣装デザインなのだが、凡人にはこのレベルの高さは理解し難い。特にお菓子のことしか脳のない人間には。せめてボロボロの布切れだ。
 
 再びボウルの中の生クリームを泡立てながら、くしゃりとした笑顔を慧に向ける。いつもそばで見ていたはずだったのに、懐かしく感じてしまう。
 
 
 夏も終わり。窓辺から見える公園の光景をぼんやり見ていた。
 小さな背丈の子供達が、気の木陰にある砂場で遊んでいる。
 
 
 
「でもまっ、元気そうで何よりだよ。慧が無事に生きてて」
 
「人のことどこまで舐めて見てるのよあんた」
 
「まあ、もうお互い子供じゃないしね。慧は昔から絡まれやすいから、そのくせ自分から危ないところに首突っ込んじゃうし。怖い大人達に囲まれて無理してるんじゃないかって、ちょっとは心配したよ」
 
 
 
 
 
 そうして彼女はまた笑う。けれどその目は困惑している。変わらない自分と、変わってしまった彼の今を見て。
 
 その言葉を聞いて、少しだけ安心したなんて、口が裂けても言わないが、窓辺の向こうにある景色を見つめながら、この甘酸っぱい時間を噛み締めた。