彼女と最後の二人の時間を過ごす中で、慧は最後の瞬間まで傍に寄り添うことにした。
 彼女が眠る台に背中を預け、眠るその娘に一人語りかけた。虚空を見上げ、この声が届くことを祈った。
 
 
 
「ねえ、何とか言いなさいよ……」
 
 
 またひょっこり声が聞こえて、あの娘が満面の笑顔を見せてくれるような気がした。こんなの往生際が悪いだけだ。
 
 
 
「どうすんのよ。あんたのお店。子供の頃からの夢だったんでしょう? 自分の作るお菓子でたくさんの人に喜んでもらうって……途中で逃げるんじゃないわよ」
 
 
 不特定多数の人達が笑顔になったって、隣にあなたがいなければ何の意味もない。それくらいあの娘の笑顔は、この世界で光り輝く存在だった。
 
 
 
「ねえ、杏奈、甘いお菓子なんかなくったって、あんたがいてくれるだけでよかったのよ。あんたの夢が叶ったら、大好きな気持ち伝えたかったのに、どうして置いて行っちゃうの……」
 
 
 
 あなたがいなくなったら、またふりだしに戻ってしまった。
 やっと自分にできることを見つけられたはずなのに、また見失ってしまった。あなたを守るってこの手に誓ったはずだったのに、掴んであげられなかったこんな自分が、情けなくて。
 
 いっそこのまま、水も飲まず身体がミイラになって二人でずっといられるなら、それも本望だ。慧はあの娘がいない世界を一人で生きることにただ絶望した。
 
 
 
 蝋台から僅かに漏れるオレンジ色の明かりが、いつの間にか彼の靴先に落ちていた一枚の用紙を照らした。涙も枯れてしまったこの目にそれを捉え、彼は手を伸ばした。
 A4用紙をふたつ折りにしたそれをなんとなく手に取り、開いた。びっしりとボールペンで書いた文字が飛び込んでくる。杏奈の字だ。
 
 あの娘が常日頃考えていたお店の一番を飾るお菓子のレシピ。完成していた。あの娘が考えたお菓子のレシピは、ありきたりで単純だけど、工程がひとつひとつ丁寧に書かれていて、胸いっぱいの愛情が込められていた。
 
 
 
 
「杏奈……」
 
 
 最期までやることがあの娘らしくて、枯れたはずの涙がボロボロ出てきた。きっと人生の中で、こんなに泣くことはこの先もない。
 あの娘への償いに、この最後の涙を流そう。
 
 
 そして、あの娘の分までたくさん笑おう。
 
 
 

 
 
 
「ごめんなさい……杏奈……」
 
 
 
 
 最期まで、守れなくて。
 あなたの手を離してしまって。
 
 
 
 こんなに情けない自分に、まだできることがあるだろうか。
 もう会えないあなたの代わりに、まだできることが。あなたが残してくれたこの希望を頼りに、あなたの分もこの人生を生きたい。