慧の説得を受け入れてくれた杏奈は、白血病治療に専念することを約束してくれた。
 杏奈がいない間は、慧があのお店のことを任されている。どうせ日本に帰ってきてもやることがなかった慧には、彼女のためにできることがあるだけで嬉しかった。
 
 このお店が、杏奈の一生の宝物になる。
 それを彼も心から願っていた。そんな彼女と過ごした夏がもうすぐ終わろうとしていた。
 
 
 
 
「そろそろお店の名前、決めないとね」
 
 杏奈の病室に見舞いに来た慧は、まだ決めていないお店の名前の案を彼女に持ちかけた。お店の準備が早く終わった帰りには、こうして彼女の病室を訪れていた。
 また来たの、と彼女にはからかわれるが、嬉しそうなその娘の笑顔をただ見たくて通っていた。
 
 慧が久しぶりに焼いたタルトを持ち寄り、二人で他愛ない会話をする時間を楽しんだ。
 こんな時間が数年後にはなくなるかもしれないことを、まだ実感することはできなかった。
 
 
「うん。でもまだお店に出すお菓子の案がまとまってないからなあ。お店の看板商品になるような、みんなに愛される特別なお菓子を作りたいな」
 
 お互いに嫌なことには触れず、好きなお菓子の話やお店の話をした。夢を語る杏奈の横顔は、やはり昔と変わらずこの世で一番可愛いと思った。
 急ぐことはない。ゆっくりと向き合うことにしたのだ。
 
 
「杏奈なら、きっとできるわよ」
 
「うん。私もそう思う」
 
 
 自信たっぷりに鼻を鳴らす幼馴染みを、あの頃のように一番近くで見守ることにした。
 彼の誓いは、臆病だった彼自身を変えた。この世界では異質な自分の存在を、受け入れられた。周りの目なんか気にしなくなった。自分の生き方に素直になれた。だから彼女の隣にいることを、今は心から喜べる。今はもう迷わない。
 
 
 
 
 
「治療の方はどう?」
 
 レモンのタルトを嬉しそうに頬張る杏奈に、慧は勇気を出してそう聞いてみた。あまり触れないようにしていても、目を背けるわけにはいかない。ともに病気と向き合うと決めたから。
 杏奈はなるべく彼に余計な心配をかけないように、言葉を選んできた。彼の気持ちは嬉しいが、彼の前では今でもつい見栄を張りたくなる。悪い癖だ。
 
 
「順調だよ。本格的な抗癌剤の治療に入る前に、帰宅許可が降りたの。一度家に帰るつもり」
 
「大丈夫なの。迎えに行こうか」
 
「いいよ。慧にもたくさん迷惑かけてるし。これくらい自分でしたいの。お店にも顔出すつもりだから、それまでにこのレシピ完成させて持っていくね」
 
 
 
 久しぶりに見ることができた杏奈の可愛い笑顔。
 やっと取り戻すことができたと、彼も安心していた。そして彼も心から笑うことができた。