「ねえ、あんたは、どうして私が突然パリコレモデルなんかやろうと思ったのか、わかってるの?」
 
 
 
 窓辺の向こうにある景色は、次第に彼から遠ざかる。
 
 彼の足音に杏奈が顔を上げると、慧が静かに見下ろしていた。杏奈の顔つきが、少し強張っているように見えた。
 
 
「慧?」
 
「いい加減ウザいのよ。そういうの」
 
 けれど、今の慧は、その些細な表情に気づく余裕はなかった。殺しきれない自分の感情が、彼の中でもう張り裂ける寸前だった。
 
 杏奈は、寂しくなかったのだろうか。
 久しぶりに慧を見ても、いつも彼女はお菓子とばかり向き合って。寂しい素振りも慧に見せなかった。
 
 一度は拒まれたのに、また杏奈の腕に縋る。
 幼馴染みを前にすると、かつての弱い自分の声が聞こえてくる。
 知りたい。会えなかった空白の時間、彼女は何を思っていたのか。何も思っていなかったのか……。
 
 
 
「私は、ずっとあんたのこと……」
 
「っ……やめてよッ!」
 
 
 杏奈が叫んでから、長い沈黙が続いた。
 
 肩で息をする姿を目の当たりにし、彼は愕然とした。杏奈から振りほどかれた手は、小刻みに震えている。彼の足元に、剥きかけの林檎が転がる。
 
 
 杏奈の怯える瞳が、慧を突き放す。
 
 
 

「そう。あんたも、私を拒むのね」
 
 
 
 こんなことなら、あのまま着せ替え人形でいたらよかったのかもしれない。
 遠い異国の地で愛する幼馴染みを思い偲ぶくらいの方が、彼にはお似合いだったのかもしれない。
 
 
 こんな変質な自分には、まともな恋愛なんか赦されないと、わかりきっていたはずなのに。
 
 寂しいだなんて思っていたのは、彼だけだったと思い知らされた。
 
 
 
 
「もうここには来ないから」
 
 
 慧に掴まれた腕を胸の前で抱きしめる杏奈を一瞥して、彼は荷物を握り締めて店を出る。彼は、彼女を残した店の方を一度も振り返らず一人の道を歩いた。
 
 
 
 
 
「慧……」
 
 
 咄嗟に言葉が出てこなくて、彼を引き止められなかった。ここにはもう彼はいない。
 
 杏奈にとっても、慧は大切な幼馴染みだったはずなのに。
 
 
 
「どうして……っ」
 
 
 この涙を受け止めてくれる人を、もう失ってしまった。自分のせいだ。彼に酷いことをしてしまった。
 
 
 
 彼の前ではずっと隠していた自身の腕を見つめる。日焼けを知らない白く細い腕に、青あざが浮かんでいる。
 
 この秘密だけは、彼に知られるわけにはいかなかった。