「ちょうどお預かりいたします。お大事にどうぞ」


最後の患者が会計を済ませ出て行くと、室内はしんと静まり返った。
今日の診察時間は午前中のみ。私は椅子から立ち上がると、いそいそと帰る支度を整える。よかった、この分だと何とか間に合いそう。


私、天野真白(あまの・ましろ)は、実家近くの歯科医院で受付業務に勤しんでいる二十一歳だ。診療時間は月曜から土曜までの、午前九時から昼休憩を一時間挟んで午後六時まで。ただし、水曜日は午後休診。ちなみに、日曜と祝日も休診だ。

今日はその、午後休診の水曜日。
午前中いっぱいで仕事は終わりだが、午後は大事な用事がある。


「お先に失礼します。お疲れさまでした」


挨拶もそこそこに、私は急いで駅へと向かった。


・・・・・・・・・・

建物の中に入り扉を開けると、その白さに一瞬目がくらむ。薄目を開けたまま、私は目立たないようそっと端へと移動した。


「真白ちゃん、こんにちは」

「こんにちは」


目立たないように動いても、やはり音は出るもので。細田さんは私を見つけると、いつも嬉しそうな声をあげて近付いてきてくれる。段々と髪の毛に白いものが混じり出して、今やすっかりダンディーなおじさまだ。
初めて挨拶をしてから十年、細田さんは私にはいつも優しい。


「今日、他の方は?」

「都合つかなくて夜から」


コートを脱いで椅子の背もたれに掛けていると、細田さんは内緒話をするかのように小声で教えてくれた。


「ちょっとさ、あいつ、スランプなんだよ。励ましてやってくれない?」

「え」

「今は貸し切りみたいなものだし、大丈夫」


中腰で固まったままの私にウインクひとつ残し、細田さんは眩しさの発生元であるスケートリンクへと歩いていった。


(励ますって言ったって……)


私の視線はリンクの中央、黒いトレーニングウェア姿の〝あいつ〟だ。先ほどから何度もジャンプに失敗し、苛々したように頭をかきむしり座り込んでいる。


「おい、海翔! 真白ちゃんも来たんだから少しはシャキッとしろ!」


私に〝は〟いつも優しい細田さんは、彼の前だと一変して鬼になる。
その檄に顔を上げた彼としっかり目が合った私は、思わず一瞬で逸らしてしまった。

ーー意思の強い、黒い瞳。

次にちら、と見たときには、彼は既に立ち上がって滑り始めていた。気持ちを切り替えたのか、今度はステップの練習をしている。


十二年前から変わらず無表情で黙々とスケートを滑り続ける彼、田辺海翔(たなべ・かいと)は、今や日本を代表するフィギュアスケーターだ。