「雪奈さん、桜は……」

「な、なんで……」


雪奈は李紅から後退りながら、震える声で訴えた。


「なによ、それ……悪者は私?人の彼氏を盗ったのはそっちじゃない!それなのに今度は新しい彼氏を連れて、私を悪者にするわけ?!」

「……俺は桜の彼氏じゃないです。でも、大切なんだ。たまにどうしていいか分からないくらい」


──李紅……。

こんな時なのに、李紅の言葉がどうしようもなく嬉しい。

胸に空いた溝が、すっと埋まっていくような。


「雪奈さん。大切な人のことで、不意に周りが見えなくなる気持ちは、俺にも痛いほど分かります」

そっと優しく、諭すような静かな声。

「でもそれで誰かを傷つけてしまったら、自分を惨めにしてしまったら、それに気づいて辞めなきゃいけないはずなんです」

「………っ……そんな………今更…」


震える唇から雪奈が零した言葉は、本音だろうか。

今更、後戻りは出来ないと、言いたいのだろうか。


雪奈の気持ちは分からないけれど、少なくとも李紅はそう受け取ったのだろう。 静かにかぶりを振った。


「やり直せないなんてことはないはずです。だってあなたは、生きているから。これからも永く、生きていけるんだから」


生きていけるんだから、

その言葉が、ずしりと伸し掛る。


死を控えた李紅だからこそ生み出せる重さだ。


その重さが雪奈にも伝わったのだろう。
雪奈はすっかり押し黙ってしまった。


「桜、帰ろうか」


もう大丈夫だと判断したのか、李紅は振りほどいた私の手を再び引いて歩き出す。

………どうしてだろう。

華奢なその背中が、妙に頼もしく思えた。