一歩進むたび、久々に袖を通したブラウスの第一ボタンが、首を絞めつけてくるようだった。


「うぅ……行きたくない……」


思わず小さな独り言が漏れる。忙しなく行き交う誰にもその声は聞こえない。しかし、一人だけその言葉に返事をする者がいる。


「そりゃあ行きたくないよねぇ。何てったって自殺未遂! 気まずいよねぇ。うんうん。気持ち分かるよ〜」


随分あっけらかんとしたその回答とは対照的に、やはり久々に履いたパンプスの足は重い。

じっとりした視線を、隣を歩行する人物に送り付ける。


「えっ、何その恨めしそうな目〜。何か言いたげだねぇ〜」


大げさに驚いてみせるその人物は、藤原真糸。美波の自殺に巻き込まれて死んだ哀れな男だ。


(そりゃあ私が100%悪いんだけど……こうも煽られると、何か言い返したくなる〜っ……!)


必死で文句は堪えるものの、不満が顔に出ているのは自覚している。

そのくらいは許して欲しい。今日は騒動後、二週間ぶりの出勤日で、美波は気が滅入っているのだ。


「あああ〜……着いちゃうっ……嫌ぁぁぁ……」


顔を押さえながらぶつぶつ呟く美波は、傍から見たら相当不審人物だろう。

でも今は、そんなことはどうでもいい。会社はもう目と鼻の先まで迫っていた。

こんな時でも、足は止まることなく会社に向かっていくし、手は社員用ゲートに翳すための社員証を無意識にバッグから取り出している。

入社二年目の今、美波の身体にはしっかりとその動作が癖付されていた。


「そういえばさ、つかぬ事を聞くけど、御両親はご健在?」


唐突に、真糸がそう尋ねた。


「はい、一応元気だと思います」


母親とは、騒動の直前に会話を交わしている。特に変わった様子はなかったと思う。


「私、就職を機に上京したんです。でも、上京するって言ったらものすごく怒られちゃって……。親の反対を押し切って家出同然で出てきたようなものだから、それ以来疎遠なんですよね」


そこまで話し、美波は真糸の質問の意図を汲み取って苦笑いをする。


「娘がこんな時に出てこない親って、酷いですよね」


美波の答えに、真糸は意外そうな表情を浮かべた。


「なるほど、たしかに今回御両親の姿が見えないことには納得したよ。それにしても、意外なのは君の行動力だよね。良い子ちゃんそうなのに、何が君をそんなに突き動かしたのかなぁ?」


にやりとした笑みを浮かべる真糸に、美波はぎくりと不自然に身体を揺らす。

そうこうしているうちにいつの間にか会社に到着し、ロビーを抜け、エレベーターホールまでたどり着く。

数人の社員がエレベーターを待っていたので、美波は端の目立たないところに立った。


「……彼氏です。大学時代から付き合っていた元彼が、一緒に東京へ行こうって……」


周りに聞こえないように、しかし真糸にも本当は聞かれたくなかった……などと考えながら、美波は小さな声でそう告げた。

真糸はさらに意外だと言うように、元々大きな目をさらに丸くした。


「へぇ〜。まさかとは思ったけど、これは驚いたなぁ。君みたいな可愛い子を落とした男って、おっさんちょっとジェラシー感じちゃう」


美波の口ぶりから、それが過去の男であることは明白だった。

茶化されたことが気恥ずかしく、美波は満員のエレベーターに半ば無理矢理身体を押し込め、真糸との会話を強制終了した。