私は国富町の町長を4人見てきた

高山町長
上杉町長
河野町長
中別府町長

それぞれの町長時代を見た

高山町長はわたしが仕事を始めたころの町長だ。まさに権限をつかいまくる。いうことを聞かない奴は徹底して干す

この話は町内では有名な話で、高山派、反高山派とあり、同じような比率で選挙を6回戦っている
高山派は完勝の6連続であるからこの派閥はなんでもした。
気に食わない奴にはものも言わない、皮肉を言う。とても好調上がりとは思えない人間性を覚えている。

このころ役場の仕事の受注で役場職員、幹部、収入役、助役たちに陳情の毎日だった。

挨拶行ってもあんた、、、反対派かな、、という

のちにわかったことだが選挙で支部の役員から情報を得てそれを調整に使う。間違えた情報でも
伝わる時代だ

支部の子供は役場に採用されている事実は多くある。
校長上がりは、執念深い、関谷君、、、選挙は51たい49で勝ちは勝ちだ、それが民主主義だと胸をはった。
そのころ、私の家に、1台の町長公用車が止まった・・・母がいた。。母は息子の仕事がうまくいかないことを知って言うて

そのくるまの年寄りに言った。。どこのひとか知らんが、、息子は役場の指名に入らんで困っているが、、、というと
その年寄りは、、息子の仕事はと聞いた、、母が、、関谷水道じゃというと、、関谷水道と聞き返して去った。
そのあとから突然指名に入りだした。

その近くに町長選があり、親戚と一緒に選挙事務所に行き、魚、栄養剤など差し入れ、支部の役員にもアピールして
選挙を手伝った。。する全く変わった。。。突然変異で指名に有利に、仕事も取れ始めた。反対に選挙に反した奴は干される現実があった。
しかし、元建設課長一派の抵抗は強く、なかなか応じなかった。
集まりでも、口にくわえた煙草に火をつけさせることは普通の出来事だった。
変化点はほけだけという山の中の仕事をとって、仕事を身に町長が来て、職員に関谷の仕事をみろ
みてこいと山の中に見に来た。
そのあとから元建設課一派の態度が変わり。収入役も、、、行くと、、あんたいろいろ関係がるようですね。。。といった。
この後もこの建設一派は障害許さなかった。町であったときにやつらがあいさつ始末だった。
この一派が死んだときにもうれしくあっても葬儀にもいかないくらい憎しみをもつくらい、苛め抜かれた。
この奴とまちでの最後の会話は、、関谷さんあんたの勝ちだ。

この高山町長がやめて

選挙になり
高山派は議長をたてて、反高山派は元教育長の上杉哲夫たてて一騎打ち
このとき私は地区の区長を行っておった。

選挙は初めから結論は出ていた。農協長の一派をはじめほとんどが上杉に加担して選挙はおわった。

上杉町長の圧勝であった。ほかのことは河野町長時代に話した内容をこのあとに記載している。
今人との思い出は多い
当時、めちゃくちゃな組合を何とかしようと集まり来ては仲良くしてやるように組合員にはなした(組合とは
私が行っていた水道事業の組合のことだ)
とくに、この組合はわたしを攻撃の的にしていた。警察には投書したり、議員を使って、指名の邪魔をしたり、県職員(中野弘明を使って圧力をかけたり)
やりたい放題を続けた。特に思い出すのは、共産党の堀議員から電話があり、本義開会の一般質問で関谷さんの質問が出たよ
、といって議事録を見せてもらった。いまでもこの議事録は証拠となってのこされている
のちの尚文と親戚の福本の質問だった。
この恨みも生涯かけてやり返す。
そのやり返しのひとつは町議会の議長選挙で、福本が立候補した、そのときに、絶対に議長にさせるなと行動して
ひきづり落とした。
その次は福本が県議選に立候補したとき同じく、中野は好きではなかったが、綾野町長、高岡町長吉元らと連携して
福本を落選させた。
この2件は真剣にやられたらやり返すの行動であった。

のちに同じように知事選挙にも安藤さんという人を応援した思いがある。

話は上杉に戻って、このようなごたごた続きの中、町長を含めて騒ぐので町長へ進言した。町長、いろいろ迷惑をかけているのではなのか?
と上杉は言った、、関谷さん、あんたは一人で本当に頑張っている。なんにも俺わ迷惑とは思わん堂々といまのままやればよいと

このあと娘の結婚式、新築の時、河野はこないが上杉さんは必ず来て
あいさつで
保育園の嫁さんと、一生懸命やっている素晴らしいと言ってくれた。

上杉さん退任後は農産物を嫁さんと育て、事務所によく持ってきてくれた。。公人から
普通のおじさんに

いつまでも幸せにと思ったやさきに亡くなった。




河野利美氏亡くなる。平成29年1月18日午後7時
平成29年1月20日

前町長の河野さんが亡くなった
はるか昔のことが思い出された。

出会いはその前の町長の上杉さんと飲む機会がありその席で雑談の中に当時新町長となった上杉さんに河野さんのことを聞いたときに始まる。

その前は生粋の高山町長の声がかりで若い時に財政課長に抜擢され、かつ、高山さんの遠い親戚にもなる方と聞いていた記憶がある

話は上杉さんとの会話で河野がいないと私は仕事ができない、建設関係に詳しい河野は今後の人事で重要である旨話されていた。

平成28年11月30日ころ退任が迫った河野町長を訪ねた。
朝8時半前、町長室近くで待った

河野町長が帽子姿で現れた。
そのまま私は町長室へ入った。決済を待っている職員がいたが、一礼し町長室に入り、
・お元気ですか?お世話になりますと
・まもなく退任されますがご苦労様でしたと
・なんの恩返しもできないまま、すいませんと詫びた

町長はいやいや“とにこやかに話し

おれはやめたらボケるのではと心配している・・・・

ここは孤独なところだ

本当に寂しい場所だ、一人だけで本当に寂しいところだった・・・・・と

そういえばこの前あなたが会長していた   組合の連中が来た

あなたの業界の方とこの前会ったがみんな“仲良くしないといかんと言っておいた

あとは尚文を頼むと

それと

町長はあれの兄貴のほうがよかった。あんたが言うのはわかる
・あれは軽い。口が軽い
・兄貴のほうがしっかりしていると感じた

それと・・この席は孤独だ・・・寂しいところだ・・この席は孤独だ・・・とつぶやかれた・



話が後援会の解散はやるよ!と、あんたも嫁さんときてくれと・・・
私はいま役員ではないが(後援会には水道組合がありその会長をしていたので呼ばれていたがこの時はやめていた)
町長は、ほかに話したのは建設しかない。いいから来てくれ最後だと

 わたしはわかりました。伺わせていただきますと
 お礼を述べて一礼し町長室を出た。

河野氏との思い出を書いてみた
助役時代
・わたしは次期町長になると思っていた河野氏の自宅へ訪ねた。夜7時ころだった
話ははずみ深夜まで心の底から話した
焼酎1升はなくなった

助役時代はなにかと世話になった。
民間の気持ちのよくわかる人だった。公務員になっても民間の心を持ち続けている
珍しい役場人とは違う、ある意味サムライだった。

定年まで何事もなく終える公務員とは全く違う

助役を辞める時が来た

時期町政を任されたようだ

わたしはすぐに河野さんを訪ねた。
時期町長選出馬と拝見しました

私のできることは推薦状を差し上げ町政へ道が開ければと考え
推薦状持参し渡した

喜ばれていた・・・・のちに助役を辞めて不安な時に真っ先に駆け付けたのは関谷だったと当時の町会議員に言ったと伝え聞いた。

町長になった。
河野利美

スザマしい町政が始まった。
すぐに台風災害
小学校の統廃合
口蹄疫
普賢岳爆発

休む間もなく3期が過ぎていった。

この間わたしは挨拶をする時間もないくらい町長は多忙であった

会合で酒を飲んで回る時に町長は握手でギュッと手を握りしめて話を時折してくれたことを思い出す。

副町長への信頼度は相当なものであった「伺ったとき、ちょっとぼっけな度胸のあるやつを選んだ・・ぼっけなぐらいないと任せられんと・・」

副町長はおとなしい・・、町長の気持ちは案外通じていないように思えた。
トップはいつも自分が行った人事を
信頼していてうまくいっていると考えているが
事実は、無なんな取り巻きであった。

なんども町長から何かあれば、あれに言え、必ず、やらせるからと・・・何も頼まなかったが・・・・

入札会場風景も面白かった

当時はたたき合いが多く
会場で全員失格がでると大声で「勉強してこい!」と業者を怒鳴りつけた

挨拶に行くと談合していることが、よく見えるぞ・・とまで

突然落札者が変わる風景も見たような気がするが・・・・

お別れ、後援会での最後の言葉
いままでの町長が経験していないことを行った
いつまでも人の命は無い、限られている。
と、河野さんの残り少ない、人生と感じた私だった

「河野町長が任期中に対応したはじめての

1、町立小中学校廃校、統合化
2、台風災害における対策、湛水対策
3、口蹄疫・国富町1件だけに終わらせた