父は働き者で焼酎大好きな記憶がある。

いつも正月前になると機嫌が悪かった。金がないのでそのことが原因だったと思う。気が短く子供が何かしでかすと叩いていた。
しかし、仕事はよくでき、一宮の三輪撚糸という会社では丁稚奉公からはじまり、社長に気に入られ工場を任されるようになった。

やはり私と同じように、ねたまれることが多く、子供ともども苦労も多かった。口癖は”勝幸が辰年、俺も辰年、3代続くと幸福が来るという話をよくしていた。

一宮の苦労も続いたが、楽しい思い出も多く作ってくれた。私が免許を取ると中古車を買ってくれ大切に手入れもしてくれた。

父は一宮に来るときに免許を捨てていたので、常に私が運転をして、、家族で時々近くに行楽に出かけた。犬山、香嵐渓、琵琶湖の近く、関ケ原、静岡、当時開通したばかりの、東名高速道路を走って出かけた。少ない楽しい時間を過ごした。
当時、ボーリングブームだっただが父も体験した。

思い出は、一緒に出掛ける先はパチンコ屋、当時は手打ちといって、手で玉を一発一発入れて打つ時代、出かけるとき、住んでいた近くには電車が走っていた。

カンカン・・と電車が通過するのを待って、近くの酒屋に寄って、ぐい飲みで焼酎いっぱいを一気飲み、それからパチンコ屋

わたしはパチンコ屋の床をみて落ちている玉を拾って父にやる・・・当時1発2円、百円札で遊ぶ時代であった。金がなくなると、10円玉で5発買い、すてんてんまでパチンコにつかっていた。

夫婦げんかのもとは常にパチンコ台を父が母の財布から抜き取ってパチンコにつぎ込む・・食べる米もなくなり母は苦労していたようだった。

母は煙草を吸っていた。
常に体が悪い記憶が多く、病院へ行っていた。子供のわたしは母の寿命は短いとおもうくらい母の口からでてくることはあそこが悪い、ここが悪い

「おれは好きで結婚したわけでは無い」、と、このことは口癖であった。三財の山の中で生まれ、生まれてすぐにばあちゃんに育てられ、父を知らないで育った。そのせいか、まぶたの母ならぬ、まぶたの父であった。この育ちが母のひねくれた人生を作ったようだった。学校に行く間もなく戦争時には、山学校のようで、それが楽しかったように時折話していた。同級生も多く、走ることが得意で、それは早かったそうである。
18歳で私を生んでいる。若い母にわたしは一宮の学校に来る母がまぶしかった記憶がある。