会社をを辞めてすぐに仕事はなく、毎日ぶらぶら営業をしていた。営業に回るために名刺代わりに

事務用のカレンダー付のペン入れを持って、工務店などを訪ねて仕事を探していた。
なかなか仕事を見つけることは困難な時代だった。
とくに実績もない駆け出しには仕事の声は掛からなかった、しかし繰り返し営業を重ねていくうちに、本業の水道工事の仕事ではなく、流し台販売、石油給湯器、当時多くなりかけていた水洗化、浄化槽工事、冷房用のエアコンなどが徐々に売れてなんとか商売の形ができ始めた。
しかし、若いわたしには生活力というよりまだ遊びが多く、雇っているアルバイトと昼間からパチンコ、当時流行っていた、インベーダーゲームで暇をつぶしていた。
当時、知り合いのほかの商売をしていたひとに紹介してもらった、建売の水道、便槽の工事などが少しずつあった。

仕事をもらっていた、建売会社は協力会というのがあり、その中で定期的に集められ住宅の販売などをさせられた。
建売会社の新しい住宅団地ができると水道の引き込みなどで食べていけるようになってきた。しかし、採算が取れて儲かっている状況ではなかった。

そんな時、町で水道の大きな工事が出ることになり、偶然にも駆け出しのわたしも入札という仕事を取るための競争に参加できた。
偶然に役所に行っている時に
役場の水道課長から「関谷君、今度このような仕事を多く出すのだが地元にいる業者は仕事が出るができるか?」と聞かれ、”できます!”と答えた。

わたしはよく理解していなかったが役場の大事業である水道管の改修工事であった。

発注があり、昭和61年当時では大きい1140万円の仕事を受注できた。
このことがきっかけで、公共事業にかかわるようになっていった。
やがて仕事は終わり、景気もいいので当時の組合員一同、韓国旅行へ出かけたり、今は簡単だが当時はまだまだ、海外旅行へ行くということはすごかった。

韓国に着いても、当時は戒厳令ということで夜の11時以降は外出もできない時代だった。
ソウルに着き1泊、次の日は当時の韓国新幹線、セマウル号で釜山まで行き、1泊して帰国した。
いまでは考えられない経験をした。
豊かな時代だった。

しかし、この後に本当の大不況にあうことになる。
不景気で水道工事は無くなった。土木工事の石垣積みの仕事を父と妹の夫である文夫さんにしてもらう。
下請け、マンションの水道衛生設備工事の安受けで、今、考えると、良く完成できたものだと思う。

不況が続き、いろいろ手を出し、持っていた資金も借り入れ過大で金融機関から警戒されようとしていた。

このときに出会った人が、私を大きく成長させていった。
金には細かい人ではあったが、それなりに人脈持っている人で、この人の世話をしながら仕事を探すようになったが、なかなか仕事にはならなかった、このころが一番つらい、金はいる、仕事は無い、が続いていった。
このころ金は底をついて
手形を落とすのがやっとかっとで
妹の預金を担保に手形を落とした話をのちに聞いている。

そんな時、スタートしていた、農業用のパイプラインの仕事に参入できないかを相談し、なんとか無理やり、入り込んでいった。このことは出会った人の人脈によるものであった。
その後は、徐々に右肩上がりの経済に伴い、仕事が拡大していった。
年間に4件の受注をひとつの発注期間より得た。
金額で8000万円程度になり、このころには借金も返済。
また、工事量が多く、下請けを求められ、それをこなしていくのが大変な日々だった。
気が付けば多くの仕事と金を手にするようになっていった。

しかし、常に立ちはだかる、向かう敵が次々現れ、戦い続けていく日々が人生であったと思う。一人片づけると新しい強敵が現れる。絶体絶命と思った時に相手が壊れていく・・・不思議な戦いであった。その戦いは今も続く、これが人生なのかもしれないと

苦しい日々だけではないことは出会いの人々に恵まれている運勢を持っていたような気がする。

丁度38歳のころ仕事も順調になってきたとき、知人とゴルフ練習に行くことになり、行ったとき、
不思議なことに息苦しさが襲う。
ゴルフ練習場というのはハーフラウンドの練習場で、回っているとき次のスタート順番のコースが混んでいて順番を待っていたとき、その順番通りのコースを回っていたらあの世へ行く思いがして、遠くへ行くような、帰ってこれないような、気持ちになっていた。
突然、コースを早く回れる方向へ行き(2コース位を短絡)ショットを打つと、突然歩けない、息苦しさが襲った。
クラブを投げ出し、、知人に帰る。と言いながら車のところで大きく息をついていると「送ろうか?」と言われたが、、大丈夫と自分で運転して帰ろうとしたが、途中止まり止まり家についた。
息苦しさは続き、夕ご飯もあまり食えない。横になると言い、布団に入るが、辛い、ついに救急車を呼んでくれと電話をさせて、救急車を待ちきれないくらい息苦しくなっていった。
救急車に乗り病院へ
診察で一日様子をみようと入院、次の日精神安定剤をもらい「別に異常は無いと伝えられ退院」しかし、毎日、恐怖の息苦しさが襲ってくる。
家から自転車で近くに行こうとするが、数分すると、突然苦しくなりあわてて帰る。一旦落ち着くとおさまる。これはなになのか、何の病気なのか悩みだす。
家にいるときは何も無いが、外出すると襲う、息苦しさ、仕事で入札に行っても、その場所におられなくなる。脈拍、動悸が襲う日々が続いた。
同業者の中でも、関谷は病気のようだ、だめらしいとか聞こえてきていた。
入札の会場に入れなくなり、妹の厚子に入札をしてもらうまで病んでいた。

病院の先生も、十二指腸の炎症あとはありますが、重大な病気では無いと、病院を変えてしばらく通う日々が続いた、辛い時期であった。娘が中学校、下の息子は4年生のころ、子供から励ましてもらう。

そんなある日、近くの建具職人が家に来て、「あんたどうした。顔色も悪いし、活気が無い、知った人がいるから会ってみる?か」と私に勧めてくれた。
それまで、家の方向が悪いとか、家の裏になにかあるとか、同業者の怨念がきているとか、いろいろ言われて祈祷したりしたがいっこうに良くならない日々が続いて疲れ果てていて、渡りに船のような気がし、会いに行った。

その日は、宮崎市内の江平近くの小さな、2階であった。「面接したが、今日は館長がこない、突然これなくなった」と言われ、代理の人と話した。あんた”明日来たほうが良い、明日延岡に館長が来るので来なさいと
家に帰り、その次の日知り合いに運転してもらいながら延岡に行った。寺だった。
不思議な瓦が敷き並べてある不思議な寺だった。人も多く寺に入り記帳し、面接を待った。
待ち時間も息苦しさが襲い辛かった。
やがて面接の時間が来て、面接場所に入った。
白装束に身を纏った
館長と称する人が私たち親子をみて「君のところは親父の兄弟は5人か?と聞かれ、付き添った母が、いや、4人ですと答えた」
違う5人だ、と、わたしは親父に兄弟の人の話を聞いていた・・兄弟の二人が亡くなっている。一人は肺病で親父が子供の子のころ貧乏で、隣の一山向こうの医者に薬をもらいに行っていた話を聞いていた。もう一人は、山で材木の切り出しの仕事中に、ソリが腹に突き刺さって亡くなった。話を思い出していた。

「君のところは、昨年、家を改築したか?、家の前に白い車があるがけがれている。
先祖があなたを頼りにきている。墓参りに行ったことがあるか?2階建ての家が見える。階段が2か所見えるという」

驚いた、あまり信心深くないが、不思議であった。
この後十年以上わたしのこころの支えとして、運気を取り戻すきっかけでもあった。
「良いですか、先祖の供養をしなさいと告げられた。9日間毎日、先祖の墓に行き、お参りをしなさいと、9日目に酒を一升、墓にかける。」先祖供養を行いなさいと

実はわたしは15歳の時に病院に半年入院、その後、おなかにできた腫れをがん”と言われ、悩み果てて寺を尋ねた思い出がよみがえった。9回、妙法蓮華経と唱えなさい、苦しいときには、必ずらくになりますと、愛知県の一宮で過ごしていたころ・・同じ9昌であった。

最終日の先祖供養の時、不思議な体験を母とした。酒一生を墓の墓標の上からかけて帰ろうとした。「母がなにもなかったねと言いながら、墓の方向を見たとき、墓標にキラキラと虹のように見えた。母に見たーと聞くと母が不思議だ見えたと」
この供養を切っ掛けに、今でも毎月、1日の日は先祖を供養する日として墓参りを行っている、休みも、正月も続けている。この面接から一度も欠かさない。今思えば、先祖供養をして、館長に頼りすぎることで自分を失うこともこの後多くあったが、私の出発点である大きな出会いであった。人は達成すると、次に欲望をもち挑戦するそうして勝ちつづけるとまた、挑戦する。そのことが世の中では磨きを掛けて出世するというのだろう。私の、若いころの次々、立ちはだかる、挑戦者とは、「欲望」なのであることに最近気が付き始めていた。