私のヒストリー

1952年3月21日生まれ、大きな赤ちゃんでした。子供心は貧乏な境遇を恨みました。悩みました。しかし、いまの自分があるのはこの貧乏からの脱出、親の貧乏を自分の時代に変える。この思いは深く強い願いでもありました。

夜逃げして、故郷を捨て、言葉の通じない幼少期の体験

身分の違いを子供心に恨んでいた

新聞配達をして、母に指輪をプレゼント、ここから、人生は金だと思う人生へと転換した

大病との出会い、人生50年、短くても太い人生を通しててくれた病院の先生

学校嫌いなら経営をして、勉強できなかった分、大学でを雇え

鳥山進という経営者が私を変えた

27歳で独立、家族3人、嫁さんは保育士、共働き、嫁さんが稼ぐから、独立できた、感謝

娘をつれれて現場へ、日曜日嫁さんに手伝ってもらい、便槽入れ、清武黒北の現場

水道課長の一言で、公共事業へ

大手建設会社の下請けでの出会い、、、、最後は

本業だけでは事業の継続は難しいと思うように、昭和61年、紹介を受けて、知り合う元国会議員の秘書経験者「実はなんの力もない、部長クラスをターケットにして味方につけ競争入札情報を聞き出し、利ザヤを稼ぐ簾中」不思議と公務員はこの系統に弱いことをみていた。やがて不景気で切った」
このやからが公務員に効果がある。

このやからを使って右肩上がり、平成13年ころまで、2001年

親の苦労、夜逃げの子供といわれて、やり返す
関谷家の再興をついに達成

明かした、話、「わたしは”かぼんすと言われ、世間から馬鹿にされ、蔑まれてきた。父も母も、夜逃げから、関谷家再興へと

近くの人に語った「両親は夜逃げして、この朝日村に帰ってきた。家も作り、借金も返した。わたしにはどうしてもやりたいことがあった。」

それは、親が元気なうちに、三世代住める家を作る。親があの世に行ってから、親が生きていればというおもいはしたくない。と話した。
できるときにする。これが人生だと

それまで、わたしは、本業の水道の仕事だけでは生きていけないと思い、本業以外のレコードレンラル業に手をだし苦しんでいた。銀行は雨の降るときに傘を取り上げる、まさにその経験をした。銀行ほど無礼な無用なものはない。
やがて、働いている人の知恵で、レコード事業も黒字化、移転に伴い、会計事務所が転売してくれた。いまでいう転売、会計事務所も利益を得た。
その後販売先の社長は自殺した。

当時は新事業が流行った。焼き鳥屋、喫茶店、、、その後みんな廃業
私は運がいい

公務員がいう、公務員紹介の儲からないといわれた土地を購入、(購入しても下水道の買収地域にならない)
しかし、私の土地はその買収に会い、多くの収入を得た。運がいい

ねたみやっかみピークに、ついに、刑事事件に
同業者が警察にわいろがある。関谷がわいろを係長に渡して、有利な仕事を受注している
右翼を使い、関谷が癒着している

様々ながせねたで警察は動いた・・・・結果は何もなかった。世のかかとはねたみやっかみ連続であった検察庁まで行った。