熊本家の話、平成25年8月12日-15日
もともと、満州からの引き上げだとか
家はみな貧しかった
わらぶき屋根に住み、豚を飼い、生計をたてていた。
いつも思うことは、一生かならず貧乏ばかりではない。
あさえの学校の先生が家庭訪問に来た時、タバコのすいがら、を、床下に「ぽい」と捨てた。「先生はぼろい家だからというかのような顔で」そのときの情けない気持ちは今も忘れない。そのくらい家はひどかったが、この光景を見ていた家族は、いつかは“いつかは”という思いで頑張った。あるとき父さんが旅館の古屋があり、新築をするからいらないということでその家を買い、現在地に建てたのが、40年前、やっと家が持てたという思いであった。その古屋のまま、立てた、旅館だった。2階にもトイレがあったが、旅館をすることはないのでトイレはつくらなかった、しかし、ほかはすべてもとの旅館のまま、建て直した。
はなしでは、旅館には神棚があり、良い神棚と言い伝えたれた神様だそうで、そのまま、同じ位置に今もある。
熊本家は、母親は40代で亡くなり、父は島から戦争にでる島の兵隊さんを船で送る途中、船に人が乗りすぎ、沈没してなくなった。また、息子も兵役に行き戦士した。
残されて家族は苦労のどん底で生きていった。
となりの家主は境界をどんどん、我が家に入り込んでくる家主で、いつも境界でもめた
あるとき、突然死んだ。
境界の木を切り倒し、また、境界を入り込んで木を植える人だった。嫁もかわり、とにかく常識のないひとであった。
40年位前には家の境界のところに梨の木などがあったが、死んだ泉は実のなる木が嫌いで切り倒してしまった。
話は戻りますが、
苦労していた松市さんは役場ではたらくことになり、一生懸命はたらき辛抱して、家族を育てた。退職後すぐに体調をこわし、病気と闘うこととなってしまった。

父さんが病気になったとき、突然宮崎にいこうで“と切符を買ってきた。一緒にいったが松市がわたしの記憶では、はじめて、あれほど喜んでイノシシの焼肉を関谷の家の前でおいしい、おいしいと食べた。病気も心配だったが、井上厚子さん健二くんと一緒にいった綾のつり橋、名前はわすれたがいろいろ連れて行ってもらい松市もわたしも本当に喜び感謝した。お世話になった。

その後、松市は亡くなり、わたしは64歳のたいやの日倒れてペースメーカーを入れ、はや、3回目の入れかえをした。ことし、88歳になる。
息子泉の初盆になる。
去年のかおる君の結婚式前に田んぼの石垣を積んでいて、怪我をしたことで、抗がん剤の投与ができなくなり死期が早まった。
11月の結婚式ではほんとうに喜んで言った。すしも、うまか、うまか、といい、喜んだ、家族全部でそろっていけたことに感謝するばかりでほんとうに良かったと母は静かに語った。

年が明け、体調をこわし、1月の終わりに亡くなった。
10年間にわたる闘病を終えた。本人にいうか、いわないか、いまでも迷っていることがあるが、これで良かった。のかもしれない

今日、初盆のお参りは島中から、180名以上のおまいりは、泉さん、熊本家の付き合いの絆であり、この風習は限りなく続いてほしいものだ、と考えた。人の命は、はかない。
ひとはかならず去っていく、熊本家で夜、家族みんなをみていると、30数年前の自分の姿、みんなの姿がよみがえっている。

夏の終わりの、島の盆であった。
平成25年8月15日関谷勝幸