61歳を迎えて                     平成25年3月20日
わたしは明日で61歳になります。誕生日と結婚記念日と同じです。早いものです。長男に男の子、琉音が今月10日に生まれました。心臓にすこし異常があるようで心配をしています。わたしは家族みんながいつまでも仲良くと考える方です。家庭のトラブルは嫌です。しかし、歳を重ねるごとに多くなってくるような気がしています。
わたしが生まれたのは昭和27年3月21日今暮らしている近くの土地を借りてそこに家を建てて暮らしていました。
生活は貧乏でした。記憶では風呂に兄弟3人と一緒に入っていた時のこと、兄弟げんかを始めていたら、五右衛門風呂の蓋を母が閉めて、ほうきの枝で頭をコツン、コツン、という思い出があります。子供心に貧しいことは解っていました。夏になると、近くの知り合いの子供たちみんなで魚を取りに川に良く行きました。朝か一日中、魚を取るつもりでいっていましたが、他の仲間は大きな魚を良く取っていた記憶があります。なんとかして魚を取って夜のおかずにしたいと思う気持ちは、今思うと相当貧乏と言う思いが心に深くあったのではないのかと考えます。
思いでは、家の前は砂利道の県道でしたが、ある日、単車に跳ねられ、記憶をなくしたことがありました。母はお前がボーとしているからよ、と怒る程度で、相手の単車の人が申し訳なく誤っていた記憶があることと、その日と思うが、菓子折りの立派なお菓子を持参してきて、母はそれをもらい、それで事故が片付くのんびびりした時代であった。
爺さんは焼酎のみで、毎日飲んでは、やまいも、を掘るという、いわゆるアルコール中毒の思い出があります。あまり、接した記憶も無いのです。
兄弟の思いでは、妹の厚子との思い出が懐かしく思い出す時があります。50円を母にもらい、夏の祭りにガタガタ道をバスで出かけました。街はにぎやかでにぎわいがありました。楽しみは50円で食べられるカワヤスのうどんを食べて帰ることが楽しみであった記憶があります。近くの祭り、諏訪神社大祭が秋にあります。そこに出かけていた時のことですが、小遣い銭を兄弟でもらっていったのですが、ゲームにわたしが妹の小遣い銭までつぎ込んで、妹に申し訳ない思いで、祭りを後にしたこともありました。
小学校に入り、はだしで学校に通う。学校の校庭で友達と一緒にいた時のことです。わたしのパンツが破れているのを見られて、わたしは、本当に家は貧乏、なんだ、他の家と違うのだと感じるようになりました。父はトラックで荷物を運ぶ仕事をしていました。かなり借金をして仕事がうまく行かずに、毎日焼酎を飲んでは帰宅する日々が続いていたような思い出があります。
ある日のこと、夜中に隣の子供の体調が悪いと尋ねてきて、親父が運転して病院に載せていったこと。その子供がすぐに亡くなった事。また、夜中に家族で病院にいった時、母の育ての親であったような記憶が残っています。何故、そのような関係なのかいまだに良くわからない、母の人生です。生まれた時に姉に預けられ育てられたとか聞いています。実際の母では無いところで育った母は気が強く育ったと言うことは、このような環境であったからと理解しています。足の速い、負けず嫌いの母だったと聞いています。
人生が突然変わり始めたのは、夜中に母と親父が身支度をして、わたしたち兄弟を起こして、父の車で夜中にどこかに行くような雰囲気で走って行きました。記憶では、どこかに車を止めたのですが、その記憶はありません。確か気がついたときには、門司の駅で汽車に乗っていて、時間待ちの時に目が覚めました。そこで、母が顔を洗いなさい。わたしに歯も磨きなさいと、また、街に行くからしっかりと歯を磨いてきれいにしていないと今からは駄目よ、と言われたようでした。街といってもピンときません、また、何故ここにいるのか、これからどうなるのか解らない、ただ、子供心に、学校が休めるのがうれしい、と勘違いをしていました。やがて、汽車は走り、姫路城を通過したころか前かの記憶はさだかではありませんが、駅弁を食べていました。海苔の佃煮の味がいまでも思い出します。また姫路城がきれいに見えたことも記憶に残っています。やがて、大阪を過ぎ、京都を過ぎ、着いた所は、愛知県尾張一宮と言う駅でした。
たどり着いたところは寮があり、そこに通されて、一部屋の中で生活が始まりました。
そこの生活は今までとは全く違う世界での生活でした。
母親父は工場で働くようになり、わたしたち子供3人は小学校に2人、保育園に1人入るようになりました。わたしは小学校に通い始めました。そこには当然のようにいじめが待っていました。しかし、田舎もののわたしは街の子供は偉い、町の金持ちと違い、貧乏だから仕方が無いと諦めていました。ある日、子供たちと遊んでいると火が出てしまい藁に燃え移って燃えてしまったのです。学校に母親と父は呼び出されました。もちろん他の子供もそうです。しかし、犯人とされたのはわたしだけでした。みんなで遊んでいたのに、悪いのはわたし一人とされました。その後、どう言う訳か、わたしに観察がついたのです。理由はわたしもいまだにわかりませんが、貧乏するとこのようになるのかと、みんなで一緒に遊んでいたのに、わたしだけ犯人になる。この疑問は一生消えないことになると考えました。
この経験で親を恨んだりするものでは無く、わたしは子供心に早く貧乏から脱出することが、自分たち家族に一番求められることで、そのことを母は一番知っていたので、田舎を捨てて母親父は懸命に働きました。パチンコが好きな親父が給料を使い込んで、母と喧嘩になったこと、いつかよく覚えていませんがしばらくした時、連絡が あり、田舎の親父の父が亡くなったとの知らせ、帰りたくても帰れない。その思いが、夜中に親父を見ていると、枕を下に頭を付けて泣いていたことを覚えています。相当に親父はこの時、辛かったのでしょう。
仲間と店に行ってもお金がないから、わずか5円のジュースも買うことは出来なかった。
店先で、じーと見ていると、店のおばさんがジュースを、はい、とくれました。よかったのか、わるかったのか解らないが、タダでもらう気持ち、なんともいえない思いがいまでも残っています。
しばらくして、親父は工場長になり、社長の信頼も得て、仕事が順調になって行きました。
母は体調の変化の激しい人で、多く病院通いをしていたようです。心配性であったのです。
やがて、田舎の借金を少しでも返すと言うことで、親父は帰省し、その思いを達したのです。その思いは長い期間であったことだろうと思いました。
わたしは生涯で勉強をしたのは1回だけです。それは、自分は中学校を出たらすぐ働き稼ぐことが大切であったからです。働くということは勉強とは関係が無いと子供心に反抗していましたので勉強はしませんでした。しかし、あるテスト前に、本当に勉強したときはどのくらいできるかくらいは子供心に知っておきたかったので勉強をしました。そうしてテストを終えると、普段頭のよい子供と変わらないことに気がつきました。そんな時、先生が、関谷君、今から生きていくときに、自分に足りないものは他の人を使えば良い、せっかくの一度の人生、なにかやって悔いの無い人生にするようにと話されたことを思い出します。このときにわたしは、学校に行かなくても将来、自分が何かを行う時にそれだけ稼いでいれば、大学を出た人間を雇えば良い、とにかく稼ぐことが自分の使命だと。
しばらく日がたち、家族にも少し余裕のようなものが出てきました。あるとき何かで感じたわたしは、母に指輪が無いことに気がついたのです。指輪の値段はいくらするのだろうと考え近くの店に見に行きました。見た指輪は働けば買える金額だと考え、新聞配達をすることにしました。生まれて始めてもらったアルバイトの新聞配達でもらったお金で指輪を買い、母に渡しました。それは今でも母はしています。働けば何とかなると言う思いはこのように出来てきました。
新聞配達から牛乳配達まで、ついにダウンしていました。丁度、中学校を卒業してすぐのことでした。卒業後は親父の働いている会社で雇ってもらったのですが1ヶ月で病気入院をおくることになりました。半年の入院、その後の通院生活、食事制限、いろいろ家族迷惑を掛けっぱなしでした。本当に迷惑を掛けたといまも思います。
やっと働けるようになってしばらく、今度は盲腸の破裂でした。病院で命に関わるので母と親父を連れてきてくださいと言われ、手術となりました。丁度クリスマスの日でした。
このころは精神的にも参っていました。人生も長くないかと考えていた時に、院長が、人生、生きても70年そこそこだ。院長は、あなたと同じような病気をわたしも持っている。良く考えれば長く70年生きるより、中身の濃い50年を生きたほうが良いと考えている。君もいつまでも病気の事を考えるより、楽しい短くても濃い人生を歩むことが大切ではないのかと、このことを聞いたわたしはわれに帰り。この日から人生を考えて生きていこうと考えました。
その後、わたしが50歳になった時にこの病院の近くにいったが病院は無くなっていました。聞くところでは院長は50歳の生涯を終えたと。
いつの間にかわたしの家族にも生活にゆとりが出ていた。家族でボーリングに、ドライブに、近くの食堂で定食をみんなで食う余裕も出来ました。
しかし、突然繊維不況が訪れ、家族は田舎に帰省することになりました。人生の20数年を暮らした町から田舎へ
田舎に帰ると、宮崎市内に家を借り、家族みんな職場を探し、働き始めました。親父は田舎に家を作るために、宮崎市から田舎まで自転車で往復して、故郷の田舎に家を作りました。

田舎に戻り、再び、生活が再開されました。
私は父のいとこの外山さんという江南のイズミア近くの家の方にその方の勤め先の江坂商会というところを紹介するのでと言われ、翌日面接に行きました。ここでの出会いが私の一生を決めてしまう大きな出会いとなり、その会社で働くことになりました。当時はまだ独身で街から帰ってきた私には宮崎の西も東もわからないまま働きました。