しばらく日がたち、家族にも少し余裕のようなものが出てきました。あるとき何かで感じたわたしは、母に指輪が無いことに気がついたのです。指輪の値段はいくらするのだろうと考え近くの店に見に行きました。見た指輪は働けば買える金額だと考え、新聞配達をすることにしました。生まれて始めてもらったアルバイトの新聞配達でもらったお金で指輪を買い、母に渡しました。それは今でも母はしています。働けば何とかなると言う思いはこのように出来てきました。
新聞配達から牛乳配達まで、ついにダウンしていました。丁度、中学校を卒業してすぐのことでした。卒業後は親父の働いている会社で雇ってもらったのですが1ヶ月で病気入院をおくることになりました。半年の入院、その後の通院生活、食事制限、いろいろ家族迷惑を掛けっぱなしでした。本当に迷惑を掛けたといまも思います。
やっと働けるようになってしばらく、今度は盲腸の破裂でした。病院で命に関わるので母と親父を連れてきてくださいと言われ、手術となりました。丁度クリスマスの日でした。
このころは精神的にも参っていました。人生も長くないかと考えていた時に、院長が、人生、生きても70年そこそこだ。院長は、あなたと同じような病気をわたしも持っている。良く考えれば長く70年生きるより、中身の濃い50年を生きたほうが良いと考えている。君もいつまでも病気の事を考えるより、楽しい短くても濃い人生を歩むことが大切ではないのかと、このことを聞いたわたしはわれに帰り。この日から人生を考えて生きていこうと考えました。
その後、わたしが50歳になった時にこの病院の近くにいったが病院は無くなっていました。聞くところでは院長は50歳の生涯を終えたと。
いつの間にかわたしの家族にも生活にゆとりが出ていた。家族でボーリングに、ドライブに、近くの食堂で定食をみんなで食う余裕も出来ました。
しかし、突然不況が訪れ、家族は田舎に帰省することになりました。人生の20数年を暮らした町から田舎へ
田舎に帰ると、街に家を借り、家族みんな職場を探し、働き始めました。親父は田舎に家を作るために、宮崎市から田舎まで自転車で往復して、故郷の田舎に家を作りました。

田舎に戻り、再び、生活が再開されました。
私は父のいとこの外山さんという江南のイズミア近くの家の方にその方の勤め先の江坂商会というところを紹介するのでと言われ、翌日面接に行きました。ここでの出会いが私の一生を決めてしまう大きな出会いとなり、その会社で働くことになりました。当時はまだ独身で街から帰ってきた私には宮崎の西も東もわからないまま働きました。
非常に厳しい会社で、社長は有名な方で名前を鳥山進といい、宮崎市人名艦にもでているひとでした。
水道資材店、と土木資材を営んでいました。また、子会社には水道会社を経営しており、宮崎の水道のはしりの会社です。もともと、ここの経営者の人たちは新潟県の出身で鹿児島で江坂商会という会社で働いていて、その後、宮崎市橘通り4丁目に江坂商会宮崎支店を出して、県内に当時自転車で鋼管、ビニールパイプなどを営業販売がスタート聞いています。その後、鹿児島の本社、江坂商会が倒産、宮崎支店はそのまま名前を変えて、宮崎商会で営業をしていたが、お客さんが、江坂さん・・・と名前を変えて呼んでくれないので、元の江坂商会に戻して営業を行ったと聞いています。その後、右肩上がりの経済、オイルショックなどを経て、水道の普及が進み、大きな財を成した。
わたしは、社長の鳥山進さんからよくかわいがられ、社長の会合先、葬儀、など会社のトラック送り迎えをしていました。
その車の中での会話が今の私の経営を支えています。
商品は新聞紙で包む、金がかからない上に、客に安く提供できる。買う客を見極め、買わない客は相手にしない・・・など、また、社会との交際が会社を支える・・さまざまなことを教えてもらいました。
しかし、この息子の専務とはまったく気が合わない、なにをしても勘ぐって、悪いことしてはいないか、など、電話を受けても、社内電話で聞き取りをする異常な性格であった。
この弟は有名な江坂設備工業の社長、浩である。この男は計算高く、世渡りがうまく、世間に出ないで後ろで糸をひいいて経営を行うのがうまかった。

わたしは妹2人を毎日乗せて市内の職場で働き、帰りも時間を合わせて帰る毎日でした。
時折、時間があわないで、困ったこともありましたが、田舎と職場生活が続いたのであります。
やがて、わたしは、街で知り合っていた、今の女房を田舎に呼んで一緒に暮らすことになり、女房の里に挨拶に行き、結婚式をあげて暮らし始めました。
長女が出来、長男が誕生、このころわたしは会社を辞めて、自分で商売を始めていました。親父も風呂を作ったり、便所を改造したりしていました。わたしの商売の手伝いをしてくれていました。やがて、仕事が取れるようになり、一番下の妹、その旦那と一緒に仕事をしていきました。苦労は慣れていますのでいろいろなことがありましたが切り抜けていきました。
ある日のこと、仕事場で親父と一緒に仕事をしていました。これほど親子を感じたことは生涯ありません。それは、昼に弁当を食べようとした時、わたしの弁当の中身がドサッと地面に落ちました。わたしはもういい、としていたとき、親父はそれを拾い、弁当箱に入れなおし、親父の弁当をわたしに、お前これを食え、と親父は砂の混じっている弁当を食べたのです。
この思いは一生忘れられない思いになりました。親が子を思う気持ちをこの時親父は教えてくれました。それからも親父には肝心な時には必ずわたしを支えてくれました。亡くなって7年になりますが、もっと親父と話しておけばという気持ちが毎年強くなります。
親父は苦労ばかりして、なにも楽しいことは無かったのではないかと、わたしがこのような仕事を始めなければ親父たちを巻き込まずにすんだのではと考えます。
今、しばらく苦労していますので、このように思うのかも知れませんが、悪いことばかりでなく、会社が成長していったこともあります。良いこともありました。
景気の良いときにはみんなで旅行など、しかし、良い事は長くは続きません。
公共事業を主体に県内でも5番手まで上がっていたとき、公共事業削減、イノベーションと言葉はいいが困難な時代となっていったのです。やがて、事業転換を模索していったが、次はリーマンショックと立て続けに不況が襲い、ついにはデフレ時代になり、より経営が難しい時代になったのです。
難しい経営の始まりのころ、突然足を取られて大怪我をしてしまいました。上腕骨3箇所骨折です。入院手術となりました。しかし、入院をしている場合ではないので20日間で退院したところ今度は痛烈な痛みに3ヶ月間襲われ精神的に参ってしまいました。
その翌年、親父が亡くなりました。父は本当の苦労の人生であった。こどものころ兄弟は肺をわずらい、差別を受け、薬を一山超えて、親父はまだ幼いころ取りにいっていたようです。真っ暗ななか夜中に診療所へいっていたことを聞いた記憶がありました。また、父は5人兄弟で1人が肺で亡くなり、1人が山で仕事をしている時に亡くなっています。そんな環境で親父は働き続けていかなければならない立場であったようです。親父の兄が亡くなった時にわたしが悔やみにいった時のことですが、親父は亡くなった兄のそばで泣き崩れていました。たった残りの兄弟を亡くした親父の気持ちはこのときに良く解りました。長生きをして欲しいと願って、親父の好きなように人生をやらせたつもりでしたが、反対にそれが親父を孤独にしてしまっていたように今思います。
親父が亡くなり、日増しに親父ともっと話しをしておきたかったと思います。
親父が亡くなる前に娘が結婚し、孫が3人、1姫2太郎です。

娘の結婚も考えました。相手がすし屋です。あまりに心配したわたしは仲間とそのすし屋を見に行きました。
立派な構えにわたしも仲間もびっくり、当然借金も多いだろうと考えました。
しかし、それは仕方の無い縁であり、娘の幸せを思うことで許し、娘は嫁いていきました。
娘が2人目を出産してまもなく親父が亡くなり、3人目の出産後に嫁ぎ先の親父がなくなりました。64歳でした。同じく、もっと話をしておけばよかったと。