わたしの人生に最も大きな影響を及ぼした時代のことである。
小学校5年生に新聞配達のアルバイトをした。当時、山田太郎の新聞少年の流行したころである。

常々、母親の手に指輪が無いことに関心を持っていた。たぶん、うちは貧乏だから母親には指輪がないのだtp考えるようになり、近くの時計店によくウィンドウから指輪を眺めていた。

そんな時、新聞配達のアルバイトをしないか?と持ち掛けられ、アルバイトを行うようになった。朝はつらく妹の厚子に時々手伝ったもらうこともあった。

1か月間のアルバイト代が入った。800円、ふっとわたしはウインドウの指輪を思い出した。18金のリングが800円であることを思い出し、その店に行き購入し母に渡した。今考えると、当時小学校5年のわたしには良く出来たものだと今でも思うときがある。

話が外れたが、わたしはこのアルバイトを行うことで収入を得れれば、豊かになる。つまり、人生稼ぐことが大切なことであり、学校の勉強より金と思い始める。しかし、リスクは付きまとうもので、突然、頭がパンパンに張り、全身が腫れ、病院に行くと入院と告げられ、学校に行くまもなく、半年間の入院を行うことになる。

その時に、同じ入院患者は次々に死んでいくところを見ていき、自分はいつそうなるのだろうと、常に看護婦さんたち「当時は長崎県の五島列島から働きに来ている看護婦さんが多かった」当たり散らしていた。
やっとの思い退院あいて、半年後、今度は突然、毎日夜中に腹が痛くなる日々が続いた、痛みに耐えかね布団の上を這えずり回るほどの痛みが1週間くらい続いたあと、プッンと痛みは消えた、しかし、その後、腹の右下がぽんとこぶのようなものが出来、驚き病院へ行くと
これはがん、、と告げられた。当時はがんは確実に死に直結する病気であった。家に帰り、父と母が仕事から帰って伝えると、再び、両親ともども病院へ「石黒外科病院の院長はがんち言いましたよくわからない、、最大可能性はあるとのことで入院して手術を受けることになった。
家に帰ると・・・俺もここまでかと思うようになり、目先は真っ黒状態であった。

丁度クリスマスイブ、手術台に乗り、半身麻酔の中手術が始まった。ガチャ、ガチャと手術の音、看護婦が頑張つてと励ます・・「関谷君、これはがんとは違う、盲腸の破裂後にうみが固まったものだ。良かったね、しばらく管を入れてうみを出していけば治ると」

ほっとした、悩みが一気に飛んでいく

退院して通院しているとき、前に入院していた病気の再発、心配など先生に伝えて話しているとき「関谷君人生は一度は死ぬ、早いか遅いかの差だけだ。実は僕もあなたと同じ病気がある。しかし、わたしは50年生きれれば良いと思っている。人生は長さでは無く、どう生きたかだ。いまからどのような人生を過ごすかだ。短くても有意義な素晴らしい人生を過ごすことが大切だと、、僕は50年生きれればいいと思っている」と話された記憶がある。その後の人生は50年を目標に太くと思い様々なことにチャレンジしいま66歳になろうとしている。

40歳の厄年のときに宮崎から一宮市に行った。着いて町にあった石黒病院を探し訪ねた。病院は無かった。
同窓会の時にそのことを尋ねると、院長先生はだいぶ前に亡くなり、閉院になったと聞いた。