「すごいね。専門的なことはわからないけど、なんていうか、その……うまいね」
「いいんだよ、それで。音楽の授業じゃないんだから」
 子供の熱がさがってホッとした親のような表情で、潤くんは言った。
 私の機嫌が直ったとでも思っているのかな。
 私も私で、なんだかうまくしゃべれない。
 映画を見終えたときみたいに、陶酔している。
 やがて、潤くんは言った。

「ただ弾いてるだけなんだ。オレのは」

 ふっと短く息をつき、自嘲気味に続けた。
「専門的な立場の人間に言わせるとさ、そっちの世界では通用しないって、簡単な答えが返ってくるんだ。譜面どおりの強弱のなかで、情感とか奥ゆきを表現しなければならないんだって。いや、『しなければ』ではなく『できるかどうか』だ。それは天賦の――つまり、生まれ持った――才能で……」
 両手の長い指で、眉間をおさえた。
 うつむく。
 次の一瞬で、こちらをあおいだ。

「オレにはなかった。そんなもの」


 潤くんにもあった。欲しくても手に入れられなかったもの。
 一度、限界を知ったから……だから自分の全部を出すのが怖くなった?
 夢中になったものから裏切られるのを恐れた?

「あのさ。なにかリクエスト、ある?」
 ことさら明るい口調で潤くんは聞いた。
 私は我に返り、楽譜をのぞき込んだ。
 ページを繰ってみる。
 紙の音。見つめられている気配。
 意識したとたん、あせった。

「今の曲はなんだったの? 私、こういうのにうとくて……」
「ショパンの夜想曲だよ。――じゃあ次は、早智でも知ってるこれにしよう」
 クスッと笑って、潤くんは手を構える。
 作りものめいた笑顔。
 わたしはどういう顔をしたらいいか、わからなかった。