『さっちゃん』こと私の名前は、あの超有名な童謡のとおり「さちこ」っていう。
 早智子、という字を書くの。
 ほどよく耳になじむそのあだ名で呼ぶのは、私の知るかぎり、コレキヨ君だけ。
 ちなみにコレキヨは、是清。
 ぬぼーっとした外見(ごめん!)に似合わず、武士みたいな名前よね。
 名前の話はひとまず置いておこう。

 この戸の向こうは名字と敬称の世界。教務室。
 入ってすぐのところ、寒いくらいに効いた冷房のなか、もうひとりの日直の川崎くんが問題集を山ほど抱えていた。

「田中先生の用事って、これのこと?」
「ああ。オレひとりで充分だったな。そこ、開けといてもらえる?」
 戸は私が開けるまえに開いた。
 音声に反応する自動ドア……のはずがない。
 ここは街の中心部にある、ごくごくフツーの市立中学。
 各教室にはクーラーすら入っていないんだから。
 そこにいたのは、また会ったわね、のサッカー部のミッドフィルダーだった。
 彼は祓ったばかりの悪霊にでくわした神官のような顔をして、一歩さがった。
「でますよー」
 なんにも知らない川崎くんが、その場の雰囲気をぶち壊してくれた。私も言った。
「でますよー」
 教室に向かう。あいつは追ってこない。

 会うたびにいちいち大げさなリアクションをとらないでよ。
 男の子としゃべるだけでにらむなんて、心狭すぎ。
 私、もう彼女じゃないんだから。
 あなたのものじゃないんだから。
 もっとも、つきあっていたころだって、私は私。誰のものでもなかったけれど。
 ああそんなことより、ホームルームの時間に席替えをするんだっけ。
 ついでに氏名印を借りてくるんだったわ。


 ふいに川崎くんが言った。
「……今のヤツ」
 低い声。
 私はどきりとした。聞こえなかったふりをした。
 ちょっと速足。不自然でない程度に……不自然でも、いいやっ。
「今のヤツ、まるで昔の彼女がどこかの馬の骨といるところをとがめているふうだったな」
「……」
 いや、世の中にははっきりさせないといけないこともあるよね。
 私は勇敢に立ち向かった。
「あなた誰よ? 現実の世界に紛れ込んだ、SF小説の脇役?」