彼女は泣いている。結果を見た時から泣いている。しかし彼女は涙を拭うような動作は見せない。僕は彼女の頬にそっと手を伸ばす。彼女はゆっくりと目を閉じる。頬に触れた手に流れていた涙が止まった。僕は彼女の涙を人差し指の指先でそっと拭う。彼女が目を開け潤んだ目で僕の目を見る。
「栗原君」
彼女の呼びかけで僕は我に返った。途端になんだかとても恥ずかしくなった。
「ありがとう」
僕は一瞬わけが分からなかった。なぜ僕が感謝されるのだろうか。
「何が『ありがとう』なの?」
「君が私のことを考えてくれたことだよ」
 僕は彼女がすごいと思った。たとえ小さな言動でも大きく捉え、前向きな行動をする。何が彼女をそんな風にさせたのだろう。何が彼女の考え方を良い方向へと導いているのだろう。
 そんなことを考えているうちに時計の針がまた0を指し、17:00になったことを告げていた。移動時間も考えてそろそろ帰らなくちゃならないな、と思った僕は彼女に
「僕はそろそろ帰るね」
と短く言う。すると彼女は時計を見て、
「そうだね」
と短く返す。
「それじゃ、また」
そういって歩き出す僕の手を彼女がつかんだ。驚いて振り向くと彼女の目は強く僕の目を見ていた。
「なんで一人で帰ろうとするの?一緒に帰ろうよ」
彼女のその声は怒っていた。彼女もやっぱり女子なのだと、改めて思った。まるでスマートフォンのようだ。小さな言動でも反応し、すぐに新しい態度へと切り替わる。充電が少なくなったら通知するように、怒っていたらその怒りの感情を言葉や行動にして通知する。しかも彼女は無駄に高性能だ。基本性能は近くに転がっているものよりも上。すぐに画面が切り替わるように、すぐに感情も変化する。
 僕はそんな彼女でも一緒にいたいと思っている。いや、僕はそんな彼女と共にいなければならないのかもしれない。スマートフォンは誰かが使わない限り動かないのだから。
「そうだね。ごめん。一緒に帰ろう」
「うん」
彼女のその返事はさっきの怒りの感情を忘れたかのように明るく、小さな子供のようだった。感情の変化が速い彼女に僕はまた振り回されるのだろう。でもそれも悪くはないと思っている自分がいた。
 僕らは会場の大きな出入り口を通って外に出る。彼女や他のピアニスト達の、演奏家達のもう一つの家から。
 
 帰り道、僕らは会場と家との距離が一駅しかないこともあって歩きで帰ることにした。
「今日はありがとう」
彼女は突然に言い出す。
「コンクールに来てくれて。言った通り客席の近いところで見てくれて」
「それは僕の台詞だよ。今日はありがとう。コンクールに呼んでくれて。僕に演奏を聴かせてくれて。僕のことを変えてくれて」
彼女は笑っている。「どんなもんだい」と言っているかのように少し自慢げに。
「それでさ。君は何が変わったの?私は君の何を変えることが出来たの?」
彼女はちょっと意地悪気に言った。僕は戸惑う。でも答えはすぐに出た。
「君が変えてくれたものはたくさんあったよ。例えば、初めて会った時と今の君の印象とか。演奏に対する、音楽に対する考え方とか。でもね、君が変えてくれたものの中で一番はこんなことじゃないんだ」
そう。こんなことじゃない。君が変えてくれたのはこんな小さなことじゃない。
「じゃあ、君の中で一番大きく変えたものは何?」
「それは…以前よりも前を向いていたいと思えたことだよ。そうしないと、君の演奏が見えないから」
「そう。良かった。君を変えることが出来て」
彼女は少し安心したように、心の荷が下りたかのように息を吐いた。
「ねえ、覚えてる?あの日のことを。君に招待状を渡して、君を変えるって私が言った日のこと」
「もちろん覚えているよ。きっとこれからも忘れないよ。『君の変えてみせる』って言ったことはそれほどまでに印象的でインパクトが強かったよ」
「そうだよね。だからなんだ。だから私は本気で君を変えようとしたんだ。音楽の力で。でも、私は怖かった。もし、君を変えられなかったらって。もし君が今日来ないで、『冗談だった』って言って笑われたらって。そんなことを考えていると、練習している私が馬鹿らしくなったときもあった。でも君は今日ここにいる。そして私は最高の状態で舞台に立って、君を変えられた。だから私は嬉しいよ。最初で最後の思い出がこんな素晴らしいことで」
「最初で最後?」
「いや、何でもないよ。そうだ。あそこに寄ろうよ」
そう言って彼女が指さした先には「MHR」と書かれた小さな喫茶店があった。
「そうだね。最優秀を取った君を祝おう」
そう言って僕らは喫茶店へ向かった。
 喫茶店の中に入ると中はがらりと空いていて、とても落ち着くクラシックが流れていた。僕らは窓際の席に座り、メニューを眺める。彼女が最優秀を取ったんだから、少しくらい奢ってあげようと思って財布を取り出すと、やけに軽いな、と思った。財布を開いて見ると、札は愚か、小銭すら1枚も入っていなかった。パンフレットで全額使ってしまったことを思い出し、どうすればいいかちょっと悩んだ。
「何頼もうk」
「ごめん。ちょっとトイレ」
僕は焦って彼女の言葉を遮りトイレに駆け込んだ。どうしようかとズボンのポケットに手を入れながら考え込む。すると右手の指先に何かに触れているような違和感を感じた。何かと思って取り出してみると、それは2枚の紙が丸まったものだった。1枚には何かが書いてあり、もう一枚は野口英世が描かれている。そう、1000円札だった。1枚目には何が書かれているのだろうと思い、書かれている文字に目を通した。
「徹へ
昨日機嫌が良かったので明日何かあるんだな、と思って1000円札と一緒に入れておきました。必要な時に足りなくなったら使ってね。
                                 母より」
機嫌がいいから1000円入れるってなんだよ、と思いつつも変な時に頼りになる母に感謝した。僕がトイレから出ると、彼女がオーナーらしき人と話しているのが見えた。何を話しているのか気になったが、僕は普通に近づいて、席に着いた。席に着くとオーナーらしき男の人が
「君は何にしますか?」
と聞いてきたので
「ブラックで」
と短く返す。意外と早く届いて驚いた。どうやら彼女は紅茶とガトーショコラを頼んだらしい。なかなか良い組み合わせだと思った。
 僕らは休み終わり、会計をする。合わせて880円。僕は彼女に
「奢るよ」
と言うと彼女は
「お金はいらないよ」
と言った。彼女がお金を出さないようなので、僕は1000円を取り出し
「全額これで」
と言うと
「お金はいらないって」
と彼女が言った。意味が分からず戸惑っていると彼女は
「ここは私の家だよ」
と普通に言う。普通に言うから余計に意味が分からなくなった僕にオーナーらしき人が近づいてきて
「お金は取りませんよ。あ、自己紹介が遅れました。桜の父です。ここのオーナーを務めています。それと桜にピアノを教えています」
「ええ!?」
僕は驚きのあまり裏返った声が出てしまった。「MHR」は「MiHaRa」の文字を取ったのか、と状況を理解していると
「桜がここに友人を連れてきたのは君が初めてなんです。なので、今日は特別にお金は取りません」
そう笑顔で言われたので
「すいません」
となぜか謝る。
「いえいえ。また来てくださいね」
そう言われ僕はこの喫茶店を、美原さんの家を後にした。
 外に出ると、日は完全に沈んで月が出ていた。
「冬の夜はとにかく寒いな」
とポケットに手を入れながらつぶやいた。早く春が来ればいいのにと思いながら僕は家に帰った。