発表前に彼女は言っていた。
「コンクールの発表は演奏だけじゃないよ。入場から礼、椅子に座って、楽譜を開いて、鍵盤に触れる。最初の一音を奏でてから、流れるように弾いていく。弾き終わったら、楽譜を閉じて、礼をして、退場する。この細かい一つ一つの一連の動き全てが発表で演技なんだよ」
と。僕は彼女の言葉を信じている。いや、彼女の言葉なら信じることが出来る。自身に満ち溢れていて、自分も他人も尊重できる彼女の言葉なら…
 だから僕は周りが騒めこうとも、何があっても彼女の入場を待ち続ける。彼女は僕の心を、運命を変えてくれる唯一の存在だと信じているから。
 
 そして彼女は現れた。徐々にスポットライトを浴びながら。このホール全体にゆったりとした一定のリズムで、カツッカツッという足音を響かせながら。彼女は発表順の番号である「5」と書かれたプレートを立てかけ、ピアノの前で立ち止まり、一礼をする。正面にいた僕の姿が見えていただろうにも関わらず、表情も頬の筋肉も動かさずに。
 僕はたったこれだけの動きだけでも気が付いたことがある。それは今までの4人とは全く雰囲気が違うということだ。言い方を変えると次元が違う。数多くある10cmのチューリップの中に1輪だけ、30cmのチューリップが咲いているような感じだ。きっと彼女は良い意味で浮いている。
 きっと彼女の発表前の騒めきは嵐の前兆のようなものだったのだろう。大きなものが、多くのものを変えてしまうものが来るという前兆だったのだろう。
 一礼した彼女は、ゆっくりと背もたれのない椅子に腰を掛け、楽譜を広げる。
 発表するのは彼女であるにもかかわらず、何故だか僕まで緊張してしまう。いや、これは緊張とは違うのかもしれない。僕が、僕の体が、僕の心が、彼女の演奏を早く聞きたいと疼いているのかもしれない。きっとさっきの騒めきのせいだ、と思った。きっとさっきの騒めきのせいで、どんなピアニストかも分からない彼女に期待のような感情を抱いてしまったのだろう。
 彼女はゆっくりと鍵盤に手を置き、一音を奏でる。その一音だけで彼女の奏でている曲が、曲調が伝わってくるような感じがした。たとえ初めてこの曲を聴いたとしても。それだけ彼女の奏でた音ははっきりとしていて、体とピアノが一つになっているような、いや、もともと一つだったかのような、一体感と美しさに包まれていた。彼女の演奏に僕はどんどん引き込まれていく。
 彼女の奏でている曲は「ピアノ・ソナタ第10楽章ハ長調」モーツァルトが作曲した曲だ。課題曲になっているため他の人も全員演奏したはずだ。彼女奏でているこの曲からは何回も聴いたフレーズが流れてくる。しかし、他の人とは何かが違う。恐らく僕には説明できない何かが。
 僕はこの課題曲を他の4人の演奏を聴いて「明るめの曲」という感じでしか思っていなかった。弾むような曲調、比較的に高めの音、普段楽器や音楽に触れない僕には、ただこれだけの根拠でどんな曲なのか勝手に決めつけていた。彼女の演奏している課題曲は僕の中の印象を大きく変えていた。僕の中でただの「明るい曲」だった「ピアノ・ソナタ第10楽章ハ長調」という曲は、もう、そんなに簡単に表せる曲ではなかった。彼女は短い演奏の中で、僕の音楽に対する考え方を変えてしまった。
 あまり大きくない体の全身を使って奏でている彼女は楽しそうだった。まるで奏でている曲の曲調に合わせて踊っているかのように。
 音は弾み、指は跳ね、体は踊る。そんな楽しそうな彼女を見ていると、何故だか聴いている僕の心も踊りだす。ここまで音楽が人に影響を与えるものだとは思っていなかった。
彼女のピアノに向かっている姿は理想郷を思い浮かばせるように格好良く、見とれてしまうほど美しい。
 圧巻だった。課題曲のわずかな時間は、他の人の演奏よりもすぐに終わってしまった。そう思わせられるほどに、僕は彼女の演奏にのめり込んでいた。

 課題曲と自由曲の間の一時、発表前と同じような騒めきがこのホール内を包み込む。一つ飛ばして右隣の席に座っている若い男性二人の会話が聞こえてきた。
「今回の課題曲ってどんな曲なんだろうな」
「これには『Paradiso』って書いてあるぜ。聴いたことあるか?この曲」
問いかけた男性は友人の男性にパンフレットを見せる。
「いや、無いな。初めて聴く曲だと思うよ」
「だよなぁ。結構楽しみだな」
「そうだな。そういえばお前知ってるか?彼女の選曲方法」
「いや、知らないけど。ってかお前知ってるの?」
「噂だけどな。彼女はあまりコンクールの結果を求めて曲を選んでないらしいぜ」
「つまりはあまり難しい曲とか簡単な曲とか考えてないってことか?」
「多分な。彼女、選曲にはテーマ性を求めてるんだと」
「すげえな。それで多くの賞を受賞しているんだから。逆にそのテーマ性が審査員に伝わってし賞を取っているんじゃねえの?」
「かもしれないな」
「今回のテーマは何だろうな」
「明るめの曲じゃないか?テーマは分からんけど」
「その心は?」
「今までも明るめの曲ばかりだったし、彼女に暗い曲なんて似合わないだろ?」
「それもそうだな」
その人たちの他愛もない会話は、僕にとってはとても意味のあるものだった。

 彼女は一度鍵盤から話した手を再び鍵盤の上に置きなおす。彼女は凄い。だって、これだけの動作で騒めいていたホール内を静かに黙らせてしまうのだから。
 彼女が一音を奏でた瞬間、ホール内の空気が揺らいだ。まるで、あるべきことが起きてしまったかのように。彼女が奏でた音は切なく、悲しい。今にでも消えてしまいそうな、そんな曲だった。そして、何かを伝えようとしているような、意味を、テーマを持った音だった。僕にはこの音がただのコンクールで弾くだけの曲だけには聴こえなかった。何故だか嫌な予感がした。何かを予兆しているような、そんな予感が。
 彼女の演奏に僕も含め全員が引き込まれていった。坦々と奏でられる音に自然と。意識がなくなってしまうように、何も考えずにただただ吸い込まれていく。
 彼女の演奏が終わっても、僕はその余韻に浸っている。僕が彼女の演奏から帰ってきた時には彼女は楽譜を閉じ、立ち上がっていた。ピアノの前に立った彼女の目は潤んでいた。それだけではなく、その目からは涙が流れていた。その涙は曲のように、とても悲しみに満ち溢れている。しかし、彼女は涙をぬぐうような動作を見せなかった。涙を流していることに気が付いていないかのように。
 僕はそんな彼女の演技が終わるまで、彼女が退場するまで見続けることしかできなかった。