やっぱりコンクールは嫌いだ。主催者の話が長すぎる。もう20分は話しているだろう。まったく、観客のことも少しは考えてほしいものだ。参加者、つまりピアニストがメインのコンクールで、よくこんなに主催者がつまらない話を長々と出来るな、と少し感心してしまうほどだ。
 つまらない主催者の話も終わり、ようやくピアニストの発表へと入った。時とは早いもので、既にこの時には時計の針が0を指し、開始予定時刻から30分も経っていた。
 1人10分ちょっとの演奏だから、彼女までの待ち時間は約40分。長いと思っていたが、意外と進むのも早く、気づいた時にはもう2人目の演奏が終わっていた。
 音楽は人を移す鏡だと言うが、人の演奏を聴いていてその通りなのだと実感した。一人ひとりの演奏に個性があり、課題曲は全員が同じように弾いているはずなのに、楽譜通りに弾いているはずなのに、時々違う曲に聞こえる。だからだろうか。だからこんなにも音楽とは聴いていて面白いものなのだろうか。だから彼女はこのピアニストの世界に全力で力を注いでいるのだろうか。
 僕は二人目の演奏が終わったところで、一度会場を出て飲食可能な場所まで移動する。正直、中はとても喉が渇く。あの乾いた緊張感にはやっぱり慣れることは出来なそうだ。僕はバッグからタオルで包んだペットボトルを取り出し、キャップを開ける。結構紅茶は香りが強い。キャップを開けただけでレモンティーの甘酸っぱい匂いが嗅覚を優しく刺激する。
 レモンティーを飲み終え、会場に戻ろうとするとドレスのような格好で歩いてくる彼女を見かけた。そのドレス姿の彼女は、僕の知っている彼女ではなかった。学生や少女というより、ピアニストとしか表せないような雰囲気だった。僕はそんな彼女の姿を見て
「綺麗だ」
と無意識に呟いていた。無意識にこんな呟きをしたのは2回目だっただろうか。彼女の前では本音が全て漏れてしまいそうな気がした。
 そんな僕が発表前を理由に声をかけるか迷っていると、僕に気づいた彼女が駆け寄ってきた。
「栗原君こんなところで何してるの?もうすぐ私の発表が始まっちゃうよ」
「分かっているよ。君の発表を集中して聞くためにのどを潤していたんだよ」
簡単にバレてしまいそうな嘘で適当に誤魔化す。すると彼女は僕の嘘に気づいたようで、目を細めて言った。
「栗原君それ嘘でしょ」
やっぱり彼女には敵わない。僕は正直に言いなおす。
「僕はただ喉が渇いたから紅茶を飲みに来ただけだよ。やっぱりあの緊張感には慣れないからね」
「最初からそう言えばいいのに。なんで変なところで嘘をつくの?別に悪いこともしていないのに」
確かにその通りだと思った。僕は何も悪いことをしていない。わざわざ嘘をついてまで隠すようなことは何一つとしてない。なら、なぜ僕は嘘をついたのだろう。彼女に発表を聞きたいと思っていることを伝えるためか。いや違う。聞きたいからここに来ているわけで、そのことは彼女も知っている。そんな意味の分からない思考回路を回していると、彼女は真顔で言ってきた。
「栗原君は私のこと、好き?」
僕は突然の質問に一瞬動揺した。しかし、動揺した直後に頭の中に出てきた言葉は「好き」という本音だった。
「好きだよ」
僕は本音をそのまま言った。すると彼女は笑って
「そうだよ。嘘をつくならそういうところにしなくちゃ。じゃあ私もう行くから」
そう言って走って行ってしまった。彼女の走っていく顔は、自信と緊張に満ち溢れていた。僕は彼女の反応を見てやっぱり本気にされていないな、と少し落胆する。でもこれで、本気にされていなくて良かったのかもしれない。だって僕は彼女に××××××から。
 僕が会場に戻った時には知らないフレーズに曲が流れていた。立てかけてあるプレートには「4」と書いてあり、4人目の自由曲なんだなと気付く。僕は迷惑にならないように手すりの前に立って演奏が終わるのを待った。
 4人目の演奏が終わり、ステージの裏へと退場していく。僕は最初に座っていた席に戻り、椅子に腰を掛けた。4人目のピアニストが退場した後、あろうことか会場に少しずつに音が出始めた。周りが小声でだが話し始めたのだ。その周りの人の会話で出てきた言葉には聞き覚えのある名前が挙がっていた。そう、「美原 桜」だ。
 この騒めきは何なのだろう。木々が風に揺らされているような、静かで激しいこの騒めきは。僕はこの時、彼女がどのようなピアニストか、これから何が起こるのか、この騒めきは何なのか、全く分からなかった。良い意味の騒めきなのかも悪い意味の騒めきなのかも。いや、知る由もなかった。一つだけわかっていること、それはこれから何かが起きて、それに彼女「美原 桜」が関係しているということ。ただそれだけだった。