十二月の初め、夕日が傾き、空が茜色に染まるころ、夕日に見つめられて活動する運動部の声が聞こえてくる。そんな彼らの声で読んでいる本の内容が入ってない。僕は悪くない彼らに対して理不尽だが
「うるさいな」
とつぶやく。
 きっと僕のこのつぶやきは誰にも聞かれないまま壁に吸い込まれていくのだろう。僕のいる部屋、教室には僕の他には誰もいないのだから。
 静かな教室にガラガラと戸の開く音が響き渡る。先生だろうかとゆっくり振り返ると、そこにいたのは先生ではなかった。黒く長い髪、小動物のように黒く大きな目、血管が見えてしまいそうなくらい白く透き通った肌、細く長い手足、「美原 桜」だった。クラスの皆は彼女のことを綺麗だという。いわゆる美人だ。
 彼女は独りだった僕に対しても普通に話しかけてくれた。それからだった。彼女が近くいると何だか心臓の鼓動が速くなっていた。何と言っただろうか。こういった気持ちを。
「栗原君まだ居たんだ。流石に誰もいないと思ってた。本好きなんだね。いつも一人で読んでる」
そう微笑んで歩いてくる彼女を見ると何故だか自分の気持ちに正直なれた。
『そうか。僕は彼女に恋をしていたんだ』
でも、この気持ちはまだ心にしまっておこう。だって××××××から。
 しかし、なぜこんな時間に学校に戻ってきたのだろう。
「忘れ物しちゃって」
唐突に彼女は言った。まるで僕の考えていたことが伝わったかのように。
「栗原君の考えていることなんて誰でもわかるよ。だって顔に出てるから」
まただ。また彼女に考えていることが伝わったかのようだ。しかし、本当に顔に出ているだろうか。僕は自分の顔を触ってどんな表情か確かめる。すると突然彼女が小さく笑い出した。
「顔を触っても何も起きないよ」
彼女の微笑みは、小鳥のさえずりのように美しく、優しく、温かい。
 彼女は人の心を読めるのだろうか。今までの言動からふと疑問に思ってしまった。しかし、その疑問は一瞬で消えてしまった。その答えがどちらでもよかったからだ。どちらにしても、初めて僕のことをわかってくれる大切な存在だったのだから。
 彼女はゆっくりと窓側の最前列の机の前に立ち、しゃがみこんだ。そして、机の中から白い何かを取り出し立ち上がった。立ち上がった彼女が、風でなびいたカーテンにぼんやりと映し出される。
「綺麗だ」
僕は無意識のうちにつぶやいていた。しかし、その小さなつぶやきはなびいたカーテンのレールの音でかき消された。
「誰か招待したいな。あ、そうだ。栗原君今度の日曜日って空いてる?」
何かも分からない急な誘いに動揺した。そして咄嗟に出たのが
「あぁ」
という返事というよりうめき声に近い声だった。彼女はそれを空いていると判断したのかとても明るい表情で
「良かった。じゃあこれ招待状。地図も入っているから」
そう言って机から取り出した白い小さな封筒を僕に手渡してきた。
あんなに明るい表情をされたら受け取らないわけにもいかない。
『全日本学生ピアノコンクール』
 封筒に手書きで書かれたこの文字で彼女が出るコンクールの規模の大きさや、彼女のピアニストとしての能力の高さを実感した。それと同時にこんな大事なコンクールに僕なんかが言っても良いのだろうか、という罪悪感のようなものに襲われた。
「こんな大規模なコンクールに親を招待しなくてもいいの?」
「いいの。一応親のために作ったものなんだけど、両親の両方とも仕事で来れないって断られちゃったから」
「でも、僕なんかが行ったって何もわからないし…」
 彼女は急に立ち止まり僕の方を向いて言った。
「『僕なんか』じゃないよ。君は君。一人の人間。君が自分のことを過剰に評価しなくてもいい。でも、自分のことを悪いように言っちゃ駄目」
 そう言う彼女の声は怒っているかのように強く、今すぐにでも泣き出してしまうのではないかと思わせるくらい、小さく震えていた。
「僕は美原さんの思ってるほど良い人間じゃないよ」
 なぜこんなことを言ってしまうのだろう。彼女は価値がないと思い込んでいる僕から価値を見出そうとしているのに。だからなのかもしれない。僕はもっと僕の価値を見出して言い聞かせてほしいのかもしれない。
「そうだね。確かに君は私が思っている人間とは違うのかもしれない。だから、私には君の人柄や性格に関しては何も言えない。でもね、一つだけ言えることがあるよ。君は下を向きすぎている。もう少し前を向きなよ。前を向いていないと椅子に座った時に譜面も鍵盤も見えないよ」
 彼女の言った言葉は僕に対して言うにはとてももったいない。それほどまでに彼女の言葉は誠実で価値を持っていた。
「美原さんの言っていることは正しいと思う。でも心は簡単には変えられない。だから僕は確かめることにするよ。前を向いたらできることがあるのか。君のコンクールに行って。前を向いてきた君の音楽を聴いて」
彼女は明るく微笑み
「変えるよ。変えてみせるよ。だって私は人の心を動かすピアニストなのだから」
と、力強く言った。
 彼女の言ったこの言葉は自信に満ち溢れていて、彼女の言葉なら何でも信用できる気がした。