「――じゃあ次。80m走やりたい人」
いきなり聞こえてきたその言葉に、私の目は一気に覚めた。
そのまま勢いよく左手をあげる。「ガツン」という音と一緒に手首の辺りが痛くなった気がするけれど、そんなことを気にしている暇はない。

手をあげているのは、私も入れて全部で10人。
わあ、やっぱりやりたい人多いんだ。
・・・だけれどもう一度数えてみたら、男子の数が多くて女子は私の他に3人だけ。

80m走に出場する人数は男子と女子それぞれ5人ずつだから、間違いなく私は80m走に決定かな。

ふと隣を見ると、手をあげた姿勢のまま口を大きく開けて眼鏡がずり落ちてる矢川くんが居た。


・・・ごめんね、矢川くん。一瞬誰だかわかんなかったよ。

「えっと、石澤さん、大島さん、柴田さんに山下さん・・・と。女子はこれで決定ね。男子はジャンケンでいいかしら?」
そんな事になってるのにも構わず黒板に名前を書いてく先生。
多分、気づいてないんだろうな。

――でも初めて見たかも。感情をほとんど出さない矢川くんがこんなふうになってるの。

私はよく話す方だと思うんだけれど、彼の笑顔とか楽しそうな表情を見たのは中学校の教科書を渡されたあの日だけ。
それから今日までの間、矢川くんの笑った顔は全く見てないんだ。

あまり人と話さないから、笑ったりすることも少ないのかな?



・・・あ、そろそろ立候補した男子が集まり始めた。
まだポカンとしたままの矢川くんをつんつんとつつくと、やっと気がついたみたい。
私を見ると、「何か用?」と言いたそうに首をかしげたから、皆が集まってる教室の後ろを指差す。

すると彼はナイショの話をする時みたいに、私の耳元で「・・・ありがとう、山下さん」とささやいた。

それから丁寧に椅子をしまって、皆が集まってる方へと歩いてく。
その姿はいつもと同じに見えるけれど、私には少しだけ彼が慌ててるような気がした。
なんとなくだから、本当かどうかはわからないんだけれど。


――もしかしたら私達が気づかないだけで、普段から感情を出してるのかな。

そんな事を考えながら、私はジャンケンという名の真剣勝負をほんわかしたような気持ちで見つめてた。