さらに15分が経った。
それでも阿木は来ない。これはもう、謀られたと見て間違いないだろう。
俺は1人で戦う覚悟を決めた。
まずは、「これ、俺から差し入れ」と、背中に隠していた買い物袋を、右川に向けて差し出した。
言葉じゃ叶わないと、結局、お金と物に頼る。これじゃ本当に謝罪だと取られてしまうじゃないか。まさかそれを企んで、阿木は、俺に入れ知恵したのか。
こう言う時、思うのだ。
女子というのは結局、味方という立場には信じ切れない生きもの。
女子とは本来、そういうもの。
「うわ。キモーい♪」とか言いながらも、右川は小躍りした。
「ここまでやるとは。あんたノリくんに無視されて、今相当キテるでしょ」
「おう」
確かにそれは相当キテる。誰のせいだ。いちいちカンに障るが、ここは我慢。
右川はビニールの中から白い箱を取り上げ、中を改めて満足そうに、
「うわ。すげ。カリスマパティシエ・安食のケーキじゃんっ!美味しそ♪やるぅ~、沢村せんせ♪」
「だろ?」
こっちがすっかり得意になって安心した途端、
「ブー!正解は、ファミマのプリンでした♪って、これ誰からの差し入れだよっ!?」
一瞬で叩き落された。
ほんとに頭の回転だけは速いヤツ。
「だって、これは、浅枝が」
浅枝が適当に買って、適当にラッピング。だから、詳しい中味までは俺は知らない。今さらだが、聞いておけばよかった。
「とうとうチャラ枝さんにも泣き付いたか」
右川は忌々しそうにプリンを1つ取り出しながら、
「これが最後。あたしは会長なんか、やらないったらやらない。みんなにも、ちゃんとちゃんとちゃんと、そう言って。はい、お終い」
言うだけ言って、パクパクと自分だけが食べ始めた。
当然、俺には1つもくれようとせず、残ったプリンは再び大事そうに箱にしまって。
「山下さんにお土産か」
「アタリマエ♪」
分かってしまう自分が哀しい。
右川は立ち上がろうとして膝を立てる。そのつま先が浴衣の裾を踏んづけ、畳に沿ってズルリと滑った。そのまま足を取られて体がよろけたので、こっちが思わず手を伸ばしたら、その勢い、俺は缶コーヒーをスッ飛ばし、右川はプリンの箱を放り投げる。缶コーヒーと箱から飛び出した生クリーム、カラメル、黄色いプリンで、畳は色も匂いもぐちゃぐちゃになった。
「あぁ!?」
右川はその場に四つん這い。無残に畳に張り付いたプリンを目で追う。
「せっかく……」
浴衣の汚れも、畳の汚れも、壊れたプリン程には気にもならないか。
まるで同じ穴をジッと覗き込むように、俺は、四つん這いの右川の隣に居た。
ごめん!と俺が心底謝った事も、思いがけず男子がこんなに近くに居るという事も、右川にとってはどうでもいい事か。
右川の首筋を伝うコーヒーの1滴をジッと見ている。
それが喉を伝って浴衣の合わせの向こうに吸い込まれて消えて……それをずっと眺めている事に、独り、ぼんやり、うろたえ始めた。
エアコンの生暖かい風に煽られて、カスタード・クリームとコーヒーが強く匂い立ち、甘く、淡く、それが息苦しい。
俺は1度息を止めた。
そのまま倒れ込むように、右川に覆い被さる。
一瞬、音も消えた。
どれだけの時間、そうやっていただろう。
こちらが思うより、右川は暴れなかった。身体中をカチカチにして、無抵抗。
腕のなかで小さくうずくまる右川を見ていると、何でも素直に話せる気がしたし、今なら何を言っても受け入れてくれる気もした。
周りにも、山下さんにも、何だか俺は微妙に期待されているし。
〝チビとデカいのは、そうなる運命〟
こうなったら……ここまで来たら噂通り、なるようになってもいいかな。
口元を寄せると、その額から右川の熱が伝わる。
その肩上、首筋に顔を埋めたまま1つ長い呼吸をした所で時間が動き出した。
正直、その顔を直視する自信は無い。
これは、あんたの真心なのかと問われたら、見返りを期待する真心なんてある筈はない。
「大丈夫。おまえなら会長できる。俺だけじゃない。みんな期待してる」
俺の真心は、これに尽きた。
「頼むから」
「……」
「やってくれよ」
「……」
「黙るな」
右川は、やがて絞り出すように一呼吸置くと、
「……そういうのは、あんたが出てよ」
「俺だって出たいよ。だけど今は重森に捕まって……だから、頼むから助けてくれよ」
静かに流れるショパン。
煽られるように、俺の行動は次第にエスカレートした。
産毛を覗かせるこめかみ辺り、そこはシャンプーとも違う、どこか懐かしい匂い。桂木がくれたミルクの飴にも似た、バニラアイスのような、甘い香り。
ミルクチョコレートとか、今さっき転がしたプリンとか。
お菓子ばっか食ってると、こういう匂いが付くんだろうな。
思いがけず、そんな事を考える余裕が出てきたと、そんな事が急におかしくなってきて口元で小さく笑う。
「どうしても、ダメ?」
もう1度、耳元で囁いた。
「……あんたが、アキちゃんに何言われたか知らないけど」
「おまえも、何か言われた?何て?」
それに答えるより、右川は、突如、俺を乱暴に突き離した。
俺は潰れたプリンの上に転がされてしまう。
右川は、そのままズルズルと這って出口まで辿り付き、そこでフラフラと立ち上がり、振り返ってキッと睨んだ。
顔が赤い。
照れているからでも、恥ずかしいからでもない。
そこにあるのは凄まじい怒りの形相。
右川は転がったコーヒー缶を拾うと、力任せに投げた。缶は命中しなかった。だが、中味が方々にぶち撒けられ、こっちの体中、ユニフォームを汚す。
「欲求不満の生徒会オタク!もう顔も見たくない!あんたなんか死ね!」
足がもつれるままに、右川は部屋を飛び出した。
ぷつんと、ショパンが鳴り終わる。その途端、身体中の力が抜けた。
誰かの言う通りだった。
何もしなければよかった。
それどころか思いがけず、余計な事した。
立候補の締め切りは週末。土曜日。
「終わったなー……」