「それはちょっと非常識だな」

『でしょ? だから私言ってやったの。婚約者だって』

負けず嫌いの有紗の嘘に、思わず声を出して笑ってしまう。

いくら敵視されたからって、婚約者はないだろう。

ん?

「有紗。婚約者だって、宣言したのって、どこで言ったんだ?」

『もー。お兄ちゃん、時差ボケ? お兄ちゃんの会社の受付だって言ったじゃん』

「なんだって!?」

『ちょっと、お兄ちゃん。どうしたの?』

「すまない。有紗、また今度な」

有紗の返事を待たずして、電話を終話させる。

さっきまで笑い話だと思っていたが、忌々しき事態だ。

ただでさえ、最近俺が、松嶋グループの社長の息子だということが会社で話題になり、あることないこと噂され出したばかりだ。

その上で、婚約者がいるなんてことになってしまったら、増々噂が増長してしまう。

噂が流れるだけならまだいい。

まずいのは、その噂が流れる会社に、結衣も勤めているってことだ。

『婚約者とか、いたりして』

社長の息子であることを伝えたとき、結衣に言われた言葉がよみがえる。

もし、噂を耳にした結衣が、鵜呑みにしてしまったら、プロポーズどころではない。

時計を見ると、朝の十一時。

今日は木曜日。普段通りでいけば、結衣は出勤しているはず。

夜まで待っていられないと、俺は勢いよく部屋を飛びだした。






会社に入り、結衣のいる人事へと直行する。

廊下を早歩きで急いでいると、前から結衣の上司である小野山課長が歩いてくるのが見えた。

「あら、松嶋くん。今日は出張帰りで休みじゃなかったっけ?」

「休んでる場合じゃないんです。結衣は?」

結衣の上司でもあるが、部屋を貸している大家さんの娘さんで、結衣のことは産まれた頃から知っている小野山課長には、俺たちの交際は報告をしている。

いつものように優しく微笑んだ小野山課長の口から飛び出したのは、寝耳に水の話だった。

「結衣ちゃんなら、退職願いを私に提出して、休んでいるわよ」

「……え?」

「その件で、私もあなたに話しておきたいことがあるの。いいかしら?」

俺の返事を待つ間もなく、小野山課長は歩き出す。