ハア、と心底ホッとしたようなため息が頭の上から降ってくる。

「三枝のペースで、ゆっくり始めよう。俺、いつまでも待つからさ」

「……そんなこと言ってたら、ホントにゆっくりになっちゃうかも知れないよ」

「いいんだよ。俺は、三枝が側にいてくれるだけでいいから。それに、俺の側にいる間に他の男と遊ぶとか、そんな選択肢が三枝に用意されるとかは思ってないし」

「あ、当たり前でしょ」

松嶋くんの言葉にびっくりして勢いよく顔を上げると、そこにはニコニコと微笑む松嶋くんのドアップ。

カアッ、と頬に熱が溜まるのがわかるけど、ありがたいことに夜の世界はそれを隠してくれる。

「これからよろしくな、結衣」

サラッと私の名前を呼ぶと、彼はおでこにキスをした。

再び抱きしめられた彼の腕の中で、私はそっと目をつぶる。

……きっと大丈夫。

彼なら、私の出生の秘密を知っても、そのままでいてくれるはず。

例え、私には母親しかいなくても。

父親は、知らなくても……





私は、父親を知らない。

生物学上の父親は存在するけれど、私の戸籍に父の名前が入ったことは一度もない。

母は、未婚のまま私を産み、育ててくれた。

十歳のときに母から聞かされた話が、私の父に関するすべての情報だ。

私の母は、早くに両親を事故で亡くし、施設で育てられた。

頑張って勉強して、奨学金で大学を卒業して小学校の教員になった母は、私の父になる人と大学時代に知り合い、将来は結婚することを語り合って過ごしていた。

家族に恵まれなかった母の夢は『愛する人と、温かい家庭を作ること』

それが彼と一緒に実現出来ると、そう信じて毎日を楽しく過ごしていた日々が一転したのは、母が二十四歳のとき。

突然、彼の母と名乗る人が母の住むアパートに現れて、『息子と別れなさい』そう告げた。

そこで知らされたのは、彼が日本でも有数の大企業の御曹司で、跡継ぎとして教育されてきたこと。

今、その企業の経営が危ぶまれていていて、資金援助が必要なこと。

援助を受けるために縁談が進んでいるため、母の存在が邪魔であること。

状況が飲みこめなくて呆然とする母に向かって、彼女は更にこう告げたと言う。

『一週間あげます。その間に息子と別れなさい』

母の手に高額な小切手を握らせて、彼女は嵐のようにアパートを去った。