ドアマンが開けたドアから、ひとりの男性がやってくる。

 遠目に見ただけでも、180センチは優に超える体躯と、長い手足。

 一瞬、モデルかプロスポーツ選手が入って来たのだと思った。

 けれど、今日はその類の客の宿泊予定はない。


 磨き上げられた床を外国製の上等な靴で颯爽と歩いて来た男性は、一度フロント前で立ち止まり、胸ポケットで鳴っていたスマホを取り出した。

 ビジネスの電話らしい。
 成功した多忙な人間。
そんな印象だった。


 人目を引く魅力的な容姿に、客のみならずスタッフたちも彼にくぎ付けだった。

 そんな中、コンシェルジュデスクから彼を見ていた篠田みのりは、他の女性たちとはちがう反応を示していた。

「うそ……」

 彼を知っている。

 勤務中は努めて冷静な彼女が、思わずそう零す。


 客室数やサービスも国内トップクラスの一流ホテル。

 『ザ・グランドプリンス』

 星付きのレストランも有した、この有名ホテルのチーフコンシェルジュになって二年。

 これまでたくさんの有名人やVIPをここで迎えてきた。

 けれど、今日ほど驚いた客はいない。


 さっきから鼓動が速くなっている。

 反射的に手元にあったパソコンに目をやった。


 本日のスイートルームの宿泊者名。

 《伊崎 紘平》

 やっぱりだった。


「伊崎……先輩」


 思わずそう呟いた時、彼がスマホをポケットに戻し、こちらにやって来るのが見えた。

「……」

 みのりの鼓動は更に加速する。

 目の前にいるのは、大学時代の陸上部の先輩。
 ずっとみのりが思いを寄せていたその人だった。


「いらっしゃいませ」

 近付いてきた紘平は、軽く会釈をする。
 浮かべた笑みがあの頃のままだと思わず見とれた。


「チェックインお願いします」
「はい」

 パソコンのキーを叩く、二度ほどミスタッチをしてしまった。

 緊張で手が震える。

 憧れていた先輩が目の前にいる。
 気付いているのは自分だけだろうか。

 卒業してから何年も経つ。
 自分のことなどとっくに忘れているかもしれない。


「伊崎様ですね」
「はい、今日から何日間かお世話になります」
「会議室もご利用でしたね」
「はい、一週間後にプレゼンがありまして、会場として予約していました」
「承っております」


 業務的なやりとり。

 視線を交わすだけで、みのりは声が震えそうになるのを堪えた。


「ではこちらがルームキーになります、お荷物はベルボーイがスイートルームまで運びましたので……」

 みのりが説明する間、紘平は無言だった。

 妙な緊張感が2人の間に流れる。


「何かあれば何なりとお申し付けください」
「ありがとうございます」
 
 物腰柔らかに言うと、紘平はコンシェルジュデスクを離れた。


 やはり自分のことなど覚えていない。

 たくさんいた部員たちの中の1人にすぎなかった自分のことなど。


 静かに切なさを覚えながら、紘平の背中を見送った時だった。

 エレベーター付近まで進んだ紘平が、踵を返し戻ってくる。


「え……」


 再びコンシェルジュデスクへと戻った彼は、少し体を前かがみにして、みのりに顔を近づけた。

「あの……」

 間近に迫った彼の顔が、恐ろしいほどきれいで、仕事上の言葉さえ一瞬失った。
 
 すると紘平は、涼やかな笑みを浮かべ一言だけ告げた。



「あとで、部屋に来て」



 返事をするのを忘れるくらい、唐突な言葉。
 
 長い間、止まっていた想いが、動き出した気がした──。