「茜ちゃん」
「あの…会社でその呼び方をするのはあまり良くないのではないでしょうか」
「そうかな?」
「そうかと」

私の心配などお構いなしだというように悪びれもなく笑う彼。
内心ため息をつきながらも歩みを進めるうちに会議室の前にたどり着き、扉を開いた。

「編集長が戻るまで少しお待ちください」
「茜ちゃん」
「だから、その呼び方は…」

全く改善する気のない態度に、今度は少し強めに抗議しようと振り向いた…だけのはずだったのに。
流れるように伸びてきた彼の両腕に囲われるようにして、会議机と彼との間に挟まれた私は完全に動きを封じられていた。

「…あの、なんなんですか」
「今日の夜ディナーに付き合ってくれたら、会社では君のこと名字で呼ぶことにするよ。どう?」
「いや、どうって…とりあえず離れてくれませんか」
「質問に答えてくれたらね」

耳元で囁かれ、息のかかる耳が勝手に熱を帯びていく。

「わかりました、わかりましたから…っ」
「ん、いい子」
やっとのことでそう返事をすると、目の前の身体がようやく離れて。

「お待たせしました…って、柏木さんどうしたの?」
絶妙のタイミングでやってきた編集長に不思議そうな眼差しを向けられて、乱れる心を必死に落ち着かせていく。
平静を装いながら挨拶をして、逃げるように部屋をあとにした。