当時のことを思い出す。


 無言で立ち去るものでもないので、わたしは小さくお疲れさまですと店長に一声掛けた。
 けれども微動だにせず屍のように眠る店長。寡黙で厳しい人の、普段も時折見せる眉間の皺が、こんなときにまで深く刻まれていて心配になり、わたしは無意識にそこに手を伸ばしてしまった。


 冷え性ではなかったけれど、いちアルバイト大学生女子の、真冬の夜を歩いてきた手なんぞ凶器でしかないじゃないか。それに失礼極まりない――そんな当然なことに思い至ったのは後の祭りで、わたしの指先はもうすでに店長に触れてしまっていた。


 どうしよう変なことしちゃった!


 こんな女が突然、しかも氷みたいな温度の指でお顔に触れるなどなんてこと!
 びっくりして目を覚まし、不審がられるか怒られるか微妙な空気になるだろう。
 そう、何秒後かの世界を予測した。


 けれども、現実はそうならなかった。


 店長は眠ったまま、まるでわたしの指先を心地いいとでも感じるかのように、穏やかに表情を緩めたのだ。
 眉間の皺も消えていく。
 そうして気持ちよさげに、すやすやと眠り続けた。




 わたしは、もうずっと、そのときのことが忘れられない。


 だから、次の年のクリスマスの夜、わたしはわざと忘れ物をしてお店に戻った。


 店長はまた眠っていた。ひとりきりにようやくなれた、明日の仕込みと清掃のきちんとなされた工房で、昨年と同じ体勢で疲れきっている様子で眠り。眉間には、また皺が刻まれていて。


 わたしはまた、そこに手を伸ばす。
 今度はカイロでほのかに暖め適温となった指先で触れた。