早く終わらせて、帰らないと。


私は、気合いを入れて途切れそうになる集中力を高めて、仕事を続ける。



消灯時間間近のフロアは薄暗くて、課長と私のパソコンの明かりだけが、闇夜に浮かぶ蛍の明かりみたいに、照らしていた。



もう少しで、明日までの仕事が終わりそうになった時、誰もいなくなったような気配を感じて手を止め、課長のデスクの方に視線を向けた。



先ほどまで座って仕事をしていた課長が、いない。



課長のデスク近くの壁の時計を見遣ると、9時近くだった。



荷物もなさそうだし、帰っちゃったか。


やっぱり、帰るよね。



上司が部下より先に帰宅するのは、当たり前なんだから、がっかりする必要なんてないし、それに鬼の課長が居なくなったんだから気が楽になるのに……。




今日の私は、おかしい。



一週間、ずっと私の残業に付き合うように、普段はあまり就業時間外に仕事をしない課長が残業をしていた。



自分もそれから部下にも、残業をしないよう時間内に仕事を終わらせるという、部下に残業を強要しない鬼だけど理想的な上司で。




部下より先に帰宅する上司ではない課長が帰ってしまったと気付いた途端、何故、心が切なくなるのか分からなかった。



課長が直属の部下の私に、何も言わずに帰ってしまったから?



もうすぐ仕事が終わるのに、課長が帰ったら、課長に目を通してもらえないという口惜しさから?


いや、それは明日の朝の朝礼前に見てもらえるし。



それとも、広い薄暗いフロアに一人、ぽつりと置いていかれたような気持ちになって、淋しいと思ったから?



普段は騒がしいオフィスは異様に静かで、感傷に浸るのはうってつけだった。



淋しいよ、辛いよ。こんな気持ちに何度なっても、どうしようもないけれど、やっぱり哀しいよ。



やっくん、どうして?


私、やっくんと結婚したかったよ。


ただ、結婚がしたいだけじゃなくて、大好きなやっくんと永遠の愛を育んでいきたくて結婚したいって言っていたんだよ。



どうして、たまきなの?



私の大親友が、やっくんの相手なの?



たまきも、どうして、やっくんなの?



じわりと目の奥が熱くなる。



ああ、ダメ、泣いちゃダメ。


ここは会社で、私はまだ残業中なんだから。


作業に戻らないといけない。



何度も流した涙を抑え込もうと我慢するけれど、私に反抗するかのように目に涙が溜まっていき、視界がぼやける。



ああ、もう、だから泣いちゃダメだってば。



泣き腫らした目をなんとかメークで誤魔化しているのに、また泣いたらメークが取れて、腫れが引っ込んでいる目が腫れる。



瞬きしたら絶対にこぼれ落ちてしまう涙をどうにか流さないように、奥歯を噛み締めた。




泣くのを、我慢するのって、こんなに大変で辛いんだ。



「結婚、したかったよ…。やっくん」



震える声で、独り言を呟いた。



「佐藤、もう帰っていいぞ。お疲れ。
ほら、コーヒーかミルクティー、どちらか選べ。飲め」




低くて聞き馴染みのある男性の声が頭上から突然聞こえたかと思うと、私のデスクにコーヒーと私が愛飲しているミルクティーの缶が2つ並べられていた。




「課長…」



びっくり、した…。





目を見開いて驚きながら、課長の方に顔を上げた次の瞬間、頬に生温かい水が一筋、流れ落ちた。