大樹が瑠花を送って帰ってきた後、俺たちは樹子さんに用意して貰ったカレーとサラダの夕食を平らげ、日付が変わる前に床についた。
 大樹の部屋の床に敷かれた、客用だと言う布団に潜り込む。柔らかい掛け布団からは、大樹の家と太陽の混ざった、暖かい匂いがした。
 

「玲央、さっきはおふくろが変なこと言って悪かったな」
 ベッドの上から、大樹の声がした。
「ああ、クラスマッチの写真か」
「そうそう。お似合いだなんて、無神経な親でほんとわりぃ」
 まさかあのタイミングでぶち込んでくるなんてな、と大樹が溜息を吐く。苦笑いしている顔が目に見えるようだ。
「いや、そんなには気にしてねーよ」
「ちょっとはしてるんじゃねーか」
「……まあ、ちょっとは、な」
俺も苦笑して、寝返りを打つ。


 静かな部屋に、時を刻む音だけが律儀に響いた。


「こんなこと聞くのも無神経かもしんないけどさ」
 一呼吸の間。
「お前、まだ、吉田のこと好きなの?」

「……っ」
 大樹にしては珍しく、躊躇うような口調だった。
 ハッキリ、そう聞かれたのは久しぶりで、ちくりと胸が疼く。“好き”という二文字はまだ少し辛い。七年の月日は、そう安安とこの二文字を忘れさせてはくれなかった。

「好き、ってゆーより、憧れ、とゆーか」
 俺は、慎重に言葉を選びながら答える。
「希は、今でも俺の背中を押してくれてる気がする」
「へえ」
「へえ、って」
「いやさ、今でも不思議なんだよな。他人に興味のなさそーな玲央がそこまで想うってさ」
「うっせーな。確かにそんな時期もあったけど、希は––––あいつは、そんな俺に世界を見せてくれた。俺の夢を肯定してくれた。そのおかげで今の俺があるわけで……って、うわ、俺、だいぶ女々しいな」
「いや。それは別に女々しくねーよ」
 即座に大樹が否定した。
「お前にとって、吉田がそんだけ大きな存在だったってことだろ。ま、俺だって、お前にとって偉大な存在だっただろーけどな」
「自分で言うかよ」
「だって本当のことだろ?」
 はは、と大樹は低い声で笑った。

「じゃあ、もし、の話だけど」
「ん?」
「玲央は、吉田に会えたら、今度こそ告《い》うのか?」


 何を、というのは聞かずとも知れた。
 

「––––伝えたいとは思う」
 俺は左手を握りしめながら答える。一度だけ触れたその温もりは、もう思い出すことができないけれど。
「でもな、もう、七年経ってんだ。さすがに遅ぇよな」


 自分で言った言葉で、自分の胸を締め付けた。
 七年という時の流れは相当重い。だってそうだろう?その時感じた出来事を、その時感じた気持ちを、一体どれだけの人が覚えていられる。大樹や瑠花のように連絡を取り合って、互いが“覚えていよう”としない限り、どうしたって記憶はすり減っていくばかりなのに。


「––––そうだよな。遅ぇ、よな」
 繰り返した声は、時計の音に掻き消されそうなほど弱々しいものだった。
「やっぱ、もう」
「バカ、遅いも早いもあるかよ!」
 瞬間、大樹がガバッと布団をはねのけて起き上がる。暗い部屋で表情は見えないが、バカと言い切った語気は荒かった。
「何言ってんだ玲央、告《い》いたいのはお前の勝手だろ。それなら告《い》えばいいんじゃねーの?何年前とか、もう遅いとか、気にする必要ねーよ」
「でも、今更」
「だから、今更とかねぇんだって!お前が伝えたいなら、それが今なら、もっかい告る理由は十分だろ?さっきの訂正、やっぱ女々しいわお前」
「おい……」
「俺も自分勝手かもしんねぇけど、告るのにお伺いなんていらねーよ」
 告白してもいいですかなんて聞いたことねーしな、と大樹は付け加えた。
 ああ、こういうところが流石だ。強くて真っ直ぐな言葉で、弱気になった俺の背中を押してくれるところが。希も同じだった。芯があって、真っ直ぐで、いつだって俺を支えて……––––


 会いてぇな、と素直にそう思った。
 希に会って、話がしたい。あの笑顔に、また触れたい。そして願わくば、あの時伝えられなかったことを。


「俺の中であいつは、あの頃のままなんだ」
「それなら尚更、七年分会ってこねーとな」
 大樹は笑った。
「心配なんて会ってからしろよ。––––俺は、玲央と吉田のこと、ずっと応援してんだから」

 親友の言葉は、強く、そして温かい。

「さんきゅーな、大樹」
「おう。頑張れよ」
 大樹はそう言うと、どっと布団に倒れ込んだ。
「っしゃ、じゃあ俺、仕事だからもう寝るわ。おやすみ」
 ばさっと布団を被る音がしたかと思うと、すぐに寝息が聞こえ出す。相変わらず寝つきが良い。再び静かになった部屋には、時計の音と、気持ちの良さそうな大樹の寝息が交互に響く。
 俺も布団を被り直して、天井を見上げた。


 あの日希が旅立ってから、俺は幾度となく再会を夢見てきた。居所さえ掴めたなら、たとえあいつが望んでいなくとも、無理矢理にでも押しかけてやろうと。

 でも、その思いは時が経つにつれて薄くなってしまった。

 二年が経ち、三年が経ち。
 大学を卒業する頃には、希はもう俺を忘れてしまったのではないかとさえ考えた。


 ––––––だってそうだろ?


 あれからどこにいったかも、今、どこで何をしているかも分からない。誰といて、どんな日々を送っているのかも。そんな状態で今更会えたとしても、一体何が言えるだろう。
 希にはもう、新しい日々が流れているのに。
 昔を引きずったままでいるのは、もしかしたら、俺だけかもしれないのに。

 あの日告《い》えなかったことを今になって後悔する自分が情けなくもあったし、同時にあの日の俺を叱りたいと思った。あの日、無理にでも告《い》えばよかったんだ。それが全てではないが、きちんと伝えておけば、七年も引きずるなんてことは無かった筈だ。


 ––––––“遅いも早いもあるかよ”


 大樹の言葉が、まだ耳の奥に残っている。
 告《い》えなかった言葉を、俺はまだ失ってはいない。正確に言えば、失うことが、忘れることができなかった。
 この言葉を、今、伝えてもいいのだろうか。それも、もし会うことができらなら、の話だが……。

 俺は再び寝返りを打って、目を閉じた。瞼の裏に、希の顔が浮かぶ。
 やべぇ。俺、結構重症だよな?


 目を閉じると、長旅の疲れか精神的な疲れか、多分その両方かも知れないが、睡魔がぱっくりと俺の意識を包み込む。身体が布団を通り越して、どこまでも沈んでいくような感覚が襲った。俺はその感覚に大人しく身を委ねる。
 瞼の裏に浮かんだ希が、可笑しそうに笑った。

「大丈夫だよ、玲央」
「きっと、まだ、ドラマは終わってなんかいないよ」


 薄れていく意識の中で、俺は懐かしいあの頃を思い出していた。



 (第1幕 終)