ひとしきり、感動の涙を流したあと、スフィルは、すぐに、夕餉の用意の続きに取りかかった。
 「どうしようかな…。せっかく、俺とシャラが、六年ぶりに再開できた、記念の日だからなー。凝ったものを、作ってあげたいんだけど、残念ながら、俺一人分の材料しかないんだよな。」
 スフィルは、シャラをちらっと見ながら言った。
 シャラは、別に大丈夫だよ、という顔をしていた。
 「まぁ、そうだよな。とりあえず、食えりゃいいんだよな。じゃあ…シャラ、手伝ってくれるか?」
 「うん…あ、やります。」
 スフィルは、思わず苦笑しながら言った。
 「シャラ…お前、相変わらず、丁寧な言葉遣いだな。でもさ、俺とシャラは、七つも離れているとはいえ、一応、兄と妹なんだからな。それ以前に、家族なんだ。普通に話してくれて、いいんだよ。」
 シャラは、何も言わずに、困ったような顔をしただけだった。
 リヨンは、言葉遣いに関しては、結構、厳しいしつけをしていたから、恐らく、あの言葉遣いの方に、慣れているのだろう。
 スフイルは、ぽん、とシャラの頭に、手を置いてから言った。
 「まあ、いいさ。そのままでも、充分話せるもんな。…さっ、作ろうか。」
 そう言うと、スフィルは俎の上に、赤くて太い物をおいた。
 シャラが、目を見開いたのを見て、スフィルは聞いた。
 「これ、何かわかるのか?」
 「うん。リハン、だよね?ルータイ国でも、採れるんだ…。私、それの味、好きだよ。」
 スフィルは、笑って言った。
 「もちろん採れるさ。というか、原産はここ、ルータイなんだよ。でも、シャラ、リハン食べれるんだな。俺がシャラぐらいの時は、食べれなかったんだ。大人の舌を持ってるんだな。…でも、これをどこで食べたんだ?これ、そう滅多には、王家の料理に出てこないぞ。街や村には、あまり出てないはずだし…さっきのに補足すると、これは、ルータイの方でしか、取れないはずなんだ。」
 シャラは、それを聞くなり、悲しげな顔をして、うつむいた。
 今は、母のことは話したくなかった…いや、話してはならない気がした。
 スフィルは、黙りこくったシャラを見て、顔を曇らせた。
 (…シャラって、こんなに物静かな子だったか?一体、何があったんだ…)
 スフィルは、軽く首を振ると、優しく言った。
 「変なこと聞いて、悪かったな。…さあ、そろそろできるぞ。そこの水場のそばに、皿があるだろう?…そう、それだ。とってくれないか。」
 シャラが皿を手渡すと、スフィルは手早く皿に料理をとった。
 湯気がたつ料理は、とてもおいしそうだった。
 「ほら、できたぞ。板の間に運んでくれないか?」
 シャラは、何も言わずに頷くと、皿を板の間に運んだ。
 スフィルも、箸を二人分とってきて、囲炉裏のそばに座った。
 「なんでかな、箸と皿だけは有り余ってるんだ。さあ、食べようか。待たせて悪かったな。お腹が減ってるだろ。この辺は、水が綺麗だからな。そこに住んでる魚は、とてもうまいんだ。食べてみてごらん。」
 言われるがままに、口に魚の煮つけを運ぶと、味噌の甘辛い香りが口いっぱいに広がった。
 おいしい、と言いたかったが、今、この場で声を出せば、出てくるのは涙だろう。
 母と、最後に食べた夕餉も、味噌の味つけがしてあった。
 つい、一昨日のことなのに、懐かしくてたまらない。
 結局、何も話せないまま、静かに食べている途中で、シャラはあるものに気がついて、ふと手を止めた。
 (…竪琴?)
 よく見ると、同じようなものが、いくつも、部屋の中に飾ってある。
 スフィルが、シャラの視線に気づいて、箸を置き、立ち上がると、微笑を浮かべて、シャラを一瞥してから、竪琴を持ってきてくれた。
 「これさ、俺が作ったんだよ。俺のお気に入りさ。」
 スフィルは、嬉しそうな表情で言いながら、ロン、と小さく鳴らした。
 優しい音だった。
 スフィルは、得意げに続けた。
 「この竪琴は、俺が、竪琴職人の弟子を、卒業するときに作ったんだ。その時、俺はまだ、家を出て一年…十二歳だったからなぁ…。店に並んでるのよりは、すごく拙いものなんだけど…。それまでに作った中で、一番上手く出来たやつでさ。その時、初めて師匠に褒められたんだ。音も綺麗だし、見た目もかなり美しいって。すごく嬉しかったのを、よく覚えてるよ。だからこの竪琴は…俺の、大切な宝物なんだ。」
 スフィルが、竪琴が得意なのは、知っていた。
 だが、作ることまで出来るとは…。
 一度だけ、城に、竪琴職人が来て、様々な話を聞いたことがあるが、弟子入りしてから、少なくとも、三年は内弟子として、師匠がついていないと、竪琴作りは、大成できないのだという。
 それを、スフィルは一年でやり遂げたのだ。
 スフィルの意外な才能に、唖然として声もでないシャラに、スフィルは更に言った。
 「あっ、そうだ!明日、また、工房にいかなくちゃいけないんだ。どうしても、やらなきゃいけないことが残ってて…。ぜひ、シャラにも来てほしいんだよ。俺の店を見てほしい。ついでに、俺の弟子にも、会ってやってくれ。」
 シャラは、呆然とスフィルの話を聞いていた。
 たった一年で、内弟子期間を終え、十七で、弟子がいるというのか。そして、店を持っているのか。
 十一で勘当されたあと、独立したスフィル。
 カウン国から出て、ルータイのここに家を構え、この六年間の、一人での暮らしで、大きく成長しているのだ。
 (それに比べて、私は…)
 一体、何をしているのだろうか。
 母やリーガンたちに頼って、ここまで育ってきたあげく、王女の座を捨ててまで、母のことを助けようとしたのに、結局助けられず、ルータイにまで来てしまっている。
 うつむいたシャラを見て、スフィルが、「聞いててくれ」と言ってから、曲を奏で始めた。
 そして、その口から歌が流れ始めた。
 『ほら、ご覧。草花が咲き乱れるこの場所を。精よ笑え。泣くことはするな。そなたは、笑いノ精なのだから。』
 胸の奥にずきん、とかすかな痛みが走って、止める間もなく、涙が流れ落ちた。
 (この曲は…)
 考える間もなく、答えが出た。
 (『笑いノ精』…)
 亡き母、リヨンに、教えてもらった曲だ。
 スフィルも、父も、まだいた頃の、あの幸せな日々が、一気に押し寄せ、胸を去来した。
 『んー、そうね…。子守唄の一種かしら…いい曲でしょう?まあ、スフィル。あなたは、音楽の才能があるわね。シャラもきっと、奏でることができるようになると思うわ。』
リヨンの優しい声と、微笑んでいた顔が浮かんだ。
 もう、母も父もいないのだ。血の繋がった家族は、目の前にいる、兄しかいないのだ。
 そんな現実が、荒波のように押し寄せ、涙が止まらなくなった。
 何も知らないスフィルのことを考えると、泣かない方がいいのは、よく分かっていたが、どうしても止められなかった。
 シャラの涙に気づいたスフィルは、驚いて演奏を止めた。
 「お…おい、シャラ?どうしたんだよ。今の曲は、泣く曲じゃないぞ?大丈夫か?」
 やはり、スフィルは、知らないのだろう。
 父や母に、一体何があったのかを。
 当たり前だ。知るわけがない。
 全ては、スフィルがいなくなってから、あったことばかりなのだ。
 (言うしか…ないわ…。)
 言わずに、あとから人伝いで聞く方が、どれほどのショックを受けるか…今、言った方が、後のスフィルにとってもいいということは、明白だった。
 涙をぬぐい、大きく息を吸うと、静かに話し始めた。
 ―スフィルが出ていった翌年、父、アーシュが、不慮の事故でこの世を去ったこと…母、リヨンが、つい昨日、『生けにえノ刑』に処されたこと…自分は、母を助けに行ったが、結局助けられずに、リヨンに助けてもらったこと…ランギョに乗って、河を下り、スフィルの家の前の桟橋に、運よく引っ掛かったこと…
 リヨンがランギョを、『操りノ笛』で、操ったこと以外は、全て話した。
 話を聞き終えたスフィルは、目の前の景色が、遠のいていくようだった。
 (嘘だろ…?俺は…まだ…父上と、仲直りもしていなんだぞ?母上にも、お礼も、何も言っていないんだぞ?なんで…なんで…)
 スフィルの顔を見た瞬間、シャラには、スフィルの気持ちが、よくわかった。
 スフィルは、一体、何回謝りに来ようと、していただろうか。
 何度か門の前で、スフィルに似た青年を見たことがある。
 今思うと、あの青年は、スフィルだったのだ、ということが、よくわかる。
 門の鐘を叩こうとしては、躊躇して、また叩こうとしては、躊躇して、その繰り返し…そして、門の前にいた兵に、追い返される。
 そんな風に、ずっと葛藤していた青年、あれが、自分が長年会いたいと思っていた、兄、スフィルだったのだ。
 つまり、シャラは、ここで会うより、ずっと前に、スフィルに会っていたことになる。
 そして、スフィルは謝れず、シャラは、スフィルに気がつくこともなく、ここまで長い年月が流れてしまっていたのだ。
 アーシュもリヨンも、自分の息子が、何度も家に戻ろうしていることなど、全く気がつかずに、この世を去ったのだ。
シャラとスフィルは、泣いた。
 スフィルにも、シャラにも、悔いと悲しみがあった。
 スフィルは、アーシュに謝れなかった悔い、その悔いを持ったまま、父母を亡くした悲しみ。
 シャラは、母を助けれなかった悔い、目の前で母が殺されるのを、見てるしかなかった悲しみ、そして憤り。
 本当に辛かった。
 だが、シャラは、悲しみと悔いの涙が溢れる一方で、心の中は、安堵感でいっぱいだった。
 まだ自分には、家族がいる。もう一人ではないのだ。
 こんな形で会えたとはいえ、目の前にいるのは、間違いなく自分と同じ血が流れる兄だ。
 (ここが…)
 兄と暮らす、自分の、新たな生活の始まりだ。シャラは、そう悟った。
 いい生活にしよう。どんな形でも、また、あの幸せな日々を取り戻す。
 そう決めた。
 窓から見上げると、空には、いつの間にか昇っていた、月が輝いていた。
 シャラは、ふと、気がついて言った。
 「そういえば…私の衣は?」
 「え?ああ…あれだよ。そこに干してあるだろう?」
 「うん…え?でも、スフィルのは?ずっと水がしたたってるけど…」
 「ああ…俺はいいんだよ。一瞬、河に入っただけだから。」
 「え?入った?あの、流れが速くて、冷たい河に?」
 スフィルは、ふっと眉を上げると言った。
 「お前を助けるためには、飛び込むしかなかったんだ。桟橋に、やっとのことで、引っかかっている状態だったからな。」
 はっとした。
 必死で桟橋に捕まった自分が、自力で岸に上がれるはずがないのだ。
 「飛び込んでくれたの?あんな…河に…」
 スフィルが、微笑んで頷いた時、目の前が滲んだ。
 スフィルは、七年離れていたとしても、自分を大切な妹として、見てくれているのだ。
 そう思った時、静かに涙が流れ落ちた。胸につかえていた、重いものが、取れた気がした。
 スフィルは、何も言わずに、静かにシャラを抱き寄せた。シャラが泣き止むまで、そうやって、静かに待ってくれた。
 そのまま、眠りそうになった時、頭に浮かんだのは、幸せだった。
 眠ってしまったシャラを見つめながら、スフィルも、静かに眠りについていった。