リューサは、獣舎へと走りながら、シャラのこれまでの人生を思っていた。
 (あいつ…ここまで、どれだけ辛い思いをしてきたんだ…。)
 リューサは、シクノア国の森と山を超えたところにある、ニカレン村の頭領の息子だった。
 ニカレン村は、漁業が盛んな場所だった。
 作物も育ちやすく、泉も多くあって、何不自由なく過ごせる、素晴らしい村だった。―医術師がいないことだけを除いては…。
 病気になっても、怪我をしても、自分たちで治すか、時間の経過と共に自然治癒するのを待つしかなかった。
 それでも、長年の知恵と言うのだろう。村全体で、病にかかった時などの対処法を身につけていた。
 だがある時、ニカレン村で大きな感染性の熱病が流行った。感染力が強く、村人のほとんどが感染して命を落とした。
 もちろん、こんなことは想定外で誰にも対処できなかった。
 リューサの両親も、そろって、この感染症にかかった。
 幸運にもリューサは、日々の薪集めによる山道での運動で体力がついていたために、かからずに済んだが、両親のことを治す方法は分からなかった。
 息子の懸命の看病もむなしく、リューサの十歳の誕生日を待たずに、両親はこの世を去った。
 リューサは、ひどくショックを受け、何日も家から出てこなかった。
 自分に医術の心得があれば、両親を救えた…そんな後悔に苛まれていた。
 そんな時だった。ウォーター学舎の存在を知ったのは…。
 ―隣のルータイ国にある、トワラ星ただ一つの学舎。
 ここに入って、医術師になることが出来れば、村の人たちを助けられるかもしれない。
 そう思い、猛勉強の末、ウォーター学舎に入ってきたのだ。
 もちろん、両親を亡くしたことはとても辛いことだった。長い年月が流れた今でも、ふいに後悔の念が溢れてくる。
 だが、自分は流行り病で両親を亡くしたとはいえ、そこまでは本当に何も無かった。
 農業や漁業をしながら、裕福とは言い難いが、とても幸せで何不自由なく生きてきた。
 学舎の友人たちも、同じような感じだった。
 溺れた村人を救えなかったこと。妹を破傷風で亡くしたこと。様々な、小さな理由から、医術師を目指していた。
 出身も、小さな集落や村で暮らしている子、下級貴族の息子など、あまり家で教育を受けれぬ子たちばかりだ。
 だが、シャラは全く別の理由と出身だった。
 トワラ星全体を統治していた、カウン国の出身だ。
 カウン国は、かなりの上級貴族しか住めない国だから、そこの出身というだけでも驚くことだった。
 全くもって信じられないが、シャラはもっと上の階級にいるのだ。
 ―王家の娘…王の継承権を持つ王女。
 そして、今はその王家から逃げ、捕まらないように、自分の身の安全確保のために、ここで住み込みの学生をしている…。
 気の休まる日など、一日もないはずだ。なにしろ、いつ見つけられるかわからないのだから…。
 獣舎の中からは、竪琴とシャラの声が聞こえてくる。
 「ほら、ご覧。草花が咲き乱れるこの場所を。精よ笑え。これらは全て、そなたのものとなる。泣くことはするな。そなたは笑いノ精なのだから。見てご覧。そなたの野が、美しき野となるよ。太陽の光、優しき風が合わさり、笑いノ精は笑顔を見せる。大切な人、出来ましたか?その人を、笑顔にしよう。笑いノ精、あの人に笑顔の贈り物を、してくれますか…?」
 シャラの声は、これまで聞いたこともないほど、か細かった。
 獣舎の戸をノックすると、「はい」と小さな声がして、カチャカチャと鍵を外す音が聞こえ、次の瞬間、戸が一気に開け放たれた。
 目の前に、竪琴を持ったシャラがいた。
 「リューサ先輩…」
 小さい声を聞きながら、リューサは何も言えなかった。
 青白い顔、か細い声、何よりもひどく痩せていた。
 自分がここを離れていたのは、わずか一週間。その間に、ここまで痩せるだろうか…。
 リューサの視線に気づき、シャラはリューサの手を取ると言った。
 「ここじゃ暑いでしょう?入ってください。…大丈夫、カヤンの檻の戸は閉めてあります。」
 ゆっくりと入ると、甲高い警戒音が鳴った。
 びくっと足を止めたリューサを一瞥してから、シャラは静かに言った。
 「カヤン、安心して。この人は、私の先輩のリューサ・ウィリアムよ。」
 その途端、カヤンの唸り声がぷつっと途切れた。
 「…もう大丈夫です。入ってください。」
 そっと入ると、炉の前にある机に、手をつけていない食事が目に付いた。
 「お前…食ってないのか…?」
 シャラは盆を一瞥するなり、リューサに背を向けたまま、冷たく言い放った。
 「食べる気になど、なれないからですよ。サリム先生にお渡しした、あの紙を見ていただければ全てわかるはずです。」
 リューサは、こみ上げてきた怒りを何とか抑えると、間髪入れずに言った。
 「それなら見たよ。俺と同じで、両親を亡くしたってことがわかったから、見せてもらえて助かった。」
 シャラは、驚いて振り向いた。
 リューサは頷くと、座るように示し、その横に自分も座った。
 シャラの青い目を見ながら、リューサは静かに話し始めた。
 「いいか?よく聞けよ。…俺は、シクノア国にある、ニカレン村の頭領の息子なんだ。農業も漁業も盛んな村で、普通に幸せな生活してたよ。だけど、俺が十にもならない時、流行り病で両親が死んだ。ニカレン村みたいな、山奥にある小さな村には、病気の治療法なんて伝わっていないからな。医術師なんて、いるはずもないんだ。俺、すごく悔しかったんだ。俺に医術の心得があれば、助けれたんだからな。俺がここに入ったのは、村の人たちを助けたかったからだ。」
 必死でこらえていた涙が、静かに流れ落ちた。
 涙を拭いながらも、リューサはシャラから目を離さなかった。
 「お前もさ、相当辛かったと思うよ。それも、俺とは比べ物にならないくらい。…だけど、苦しんでいるのはお前だけじゃないんだ。みんながみんな、少なからずは苦しんでいるよ。だから、みんなを頼ればいいんだ。お前は、一人で頑張りすぎ。もう少し、楽になればいいじゃん。カヤンのことは、本当に頑張ったと思うよ。俺だけじゃ、ここまで回復させることは、絶対にできなかったと思う。だけど、お前が頑張っている間、俺もサリム先生も、ハンナさんも、他の生徒や先生も…全員がお前のことを心配して、こんな飯を持っていった方がいいだの、毛布もいるんじゃないかだの、色々と助けてくれてたんだぞ。お前は、自分が知らないところで、たくさんの人に思われている。…それってさ、親とか亡くしてても、とても幸せなことなんだよ。」
 シャラは、驚きを隠せなかった。
 わずか四年しか違わないはずのリューサは、自分よりもかなり人情が厚いうえに賢い。
 驚愕の表情のまま、固まっているシャラに、リューサは言った。
 「その…俺は、お前のことを守りたい。それに、とても大切にしたい。お前のこと…好きだからさ…。だから、たくさん頼ってくれ。」
 シャラが、遠くを見るような目で頷くのを見て、リューサは微笑んだ。
 獣舎の外に出ると、既に太陽が真上に昇っていた。
 焼けそうな暑さを肌に感じながら、リューサはシャラに向き直った。
 「じゃあ、そろそろ戻るよ。帰ってすぐにサリム先生に会ったから、荷物もほどいていないんだ。…お前、今日もここで寝るのか?」
 無言で頷いたシャラを見て、リューサは眉をひそめた。
 「あまり、無理するなよ。俺は味方だからな。何かあったら、いくらでも話は聞いてやるし、やれることはやってやる。だから、悩みを溜め込むなよ。」
 そう言うと、リューサは寮へ戻っていった。
 
 シャラは、遊び疲れて、昼寝に入ってしまったカヤンをぼんやりと見ながら、リューサやサリムと話したことを思っていた。
 ―あなたは、本当に素晴らしい子よ。私たちの誇りだわ。でも、頑張りすぎるのはだめよ。
 ―みんながみんな、少なからずは苦しんでいるよ。だから、みんなを頼ればいいんだ。お前は、一人で頑張りすぎ。もう少し、楽になればいいじゃん。
 (どれだけ…)
 どれだけいい人たちなのだろうか。
 スフィルが死んだという知らせを聞いた時、もう自分は一人ぼっちになったと思っていた。
 自分は、数少ない「魔術ノ民」の血が流れる身だ。
 今、差別を受けて、辛い思いをしていてもおかしくはなかった。
 だが、差別どころか、見捨てることさえしない。
 スフィルに会いたかった。今の自分の幸せな姿と、カヤンのことを見せたかった。スフィルの声を聞きたかった。
 今の自分を見たら、スフィルはどうするのだろうか。
 よくやった、と褒めてくれるだろうか…お前は自慢の妹だ、と抱きしめてくれるだろうか…自分のお客さんたちに、俺の妹だと言って、自慢し続けるのだろうか…。
 どれにしろ、けなすようなことなどは、絶対にしなかったはずだ。
 (お母様…)
 もう遠くなった、母の顔が浮かんだ。
 幸せになりなさい、と言ってカウン国から逃がしてくれた母、リヨン・カウン。
 大好きな母だった。兄だった。
 父は、顔や性格こそ、よく覚えてはいないものの、優しい声の父親だったことは鮮明に覚えている。
 まだ、家族四人でいた頃の遠い記憶。あの頃こそ、本当に幸せな日々だった。
 四人ぐらしには、広すぎる城…優しく有能な使用人たち…強く頼もしい兵たち…そういうものが、とても懐かしかった。
 考えてみれば、王女の座を捨て、カウン国を出てから、既に三年が経っている。
 その三年の間に、色々なことがあった。喜びも悲しみもあったけれど、今ではそれが、遠い夢のように思えてくる。
 本当に幸せだった。今はない幸せが、あの頃はあった。
 不意に、ずっとこらえていた行き場のない寂しさが、止めどもなく溢れてきた。
 膝に顔をつけて、シャラは泣いた。涙が膝を濡らした。
 自分に足りなかったのは、家族の温もりだ。
 確かに幸せではあったが、苦しい日々でもあった。
 それでも頑張れたのは、家族という存在があったから。
 シャラは涙に濡れた目で、カヤンを見つめた。
 (この子を…止め笛という規範で…押さえつけておくべきだった?)
 家族から引き離され、わけも分からず硬直する。
 それほど、苦しく辛いことはあるだろうか…。
 (できない…硬直させるなんて…そんなこと出来ない…。)
 自分の今の立場を考えれば、規範でカヤンを押さえつけた方がいいのだろう。
 だが、暖炉に止め笛を投げ込んでいた母の顔を思い出すと、どうしてもそんなことは出来なかった。
 母と呆気なく行き別れた自分にとって、孤独は嫌というほどわかる。
 (お母様…助けて…)
 母が生きていれば…そう思わずにはいられなかった。
 「シャラ!」
 突然リューサの声が聞こえてきて、シャラは我に返った。
 急いで涙を拭うと、戸を開けた。
 目の前には、走ってきたのだろう、息が荒いリューサがいた。
 「シャラ、サリム先生から話があるって、サラ先生が呼びに来たんだ。そのあと、サリム先生に、俺も来てほしいって言われたから…とにかく詳しいことはあとだ!」
 カヤンに声をかけて走り出してから、シャラは胸に黒々とした不安が湧き上がってくるのを、感じていた。
 悪いことが起きそうな気がしてたまらない。
 だが、自分が開けた負の扉だ。
 自分で閉めなくてはならない。
 やることはやらねばならない。
 シャラの頭には、そんな固い決意があった。