リューサは、ウォーター学舎に着くなり、学長室に呼ばれた。
 サリムの目は、わずかに赤かった。
 「リューサ…久しぶりね。」
 「はい、ただ今戻りました。…ところで、どうしてここに俺を?何かあったのですか?」
 サリムは頷くと、そばにあった椅子を示し、「そこに座って」と言った。
 サリムも目の前に、紙を持って座った。
 「リューサ…シャラについて、どう思う…?」
 予期せぬ質問だったのだろう。
 リューサは戸惑いの色を目に浮かべてから、口を開いた。
 「いや…どう思うと言われましても…一言で言えば…凄いやつですよ。寝食忘れてカヤンの世話をしますし、綺麗な瞳を持っていますし、可愛いですし、優しくて…なんと言えばいいのかわかりませんが…完璧な人間だと思います。…あと…俺はシャラが好きなんです…。」
 サリムが、はっとしたように目を見開いた。
 その反応にたじろぎながらも、リューサは続けた。
 「本当です。シャラと付き合えたら…とても嬉しいです。」
 サリムは、つっと顔をゆがめてから、静かに言った。
 「リューサ…落ち着いて聞いてね。シャラはね、本名をシャラ・カウンと言うのよ。」
 瞬時に青ざめたリューサを痛ましげに見ながら、サリムは続けた。
 「…私も…最初はまさかと思ったの。カウン国王家の娘ってことと…カウン国の王と言えば、リヨン・カウン女王だったから…。」
 リューサはあることに思い当たり、違っていてほしいと願いつつ、震える声でこう問うた。
 「ま、待ってください。確かリヨン女王って…い、『生けにえノ刑』に身代わり処刑されたんじゃ…。違いますか…?」
 サリムはため息をつくと、さっき持ってきた紙をリューサに渡した。
 「それ、シャラがつい昨日、渡しに来たものなの。読んで戦慄したわ。…読んでみて。リューサと私に読んでほしいって言ってたから。」
 リューサは頷き、少し躊躇しつつも受け取った。
 『親愛なるサリム先生
 突然このような文書をお渡しすることをお許しください。
 これを、リューサ先輩に宛てたいのです。
 本当なら、私の口から直にお伝えすべき内容なのですが、どうしても勇気が出ず、このような手段を取らせていただきました。
 リューサ先輩、長旅お疲れ様です。
 私が生まれてから今まで、何があったのかを、短い文章ではありますがお教えしたいと思います。
 私は十三年前、カウン国王家、第二子の王女として生まれました。呪いノ民だった母の目の色を引き継いではいましたが、私は四歳まで幸せな暮らしをしておりました。
 その四歳の時、兄スフィル・カウンが勘当され、家を出て行きました。私は、自分がひどく泣き叫んでいたのを今でも鮮明に思い出せます。
 その次の年、スフィルが戻ってこぬまま、父、アーシュ・カウンが行幸先で馬車に轢かれ、この世を去りました。
 その後、私が十歳となった時、母リヨン・カウンが生けにえノ刑に、私の目の前で身代わり処刑されました。
 その時、母は操りノ術と呼ばれる、呪いノ民の魔術を使い、私のことを助けて、カウン国から逃がしてくれました。
 私はその後、ランギョに引きずられる形で、ルータイ国に流れ着き、勘当されたスフィルと奇跡的に再会いたしました。
 そこで、三年間を過ごしましたが、私はいつカウン国の者に見つかってもおかしくない身です。
 スフィルは私に泣きながら懇願し、ここ、ウォーター学舎に入れてくれました。
 ですが、スフィルが亡くなったという知らせが三日前、届きました。
 今やもう、私は一人です。
 これが、私のこれまでの人生です。
 嫌われるのも…狂った奴だと思われるのも…充分承知しております。
 ただ、知ってほしかっただけなのです。どうか、こんな傲慢なことをした私を、お許しください。
 シャラ・カウン』
 リューサは、ぱさっと音を立てて紙を置くと、サリムをうつろな目で見た。
 サリムは、ため息をついた。
 「私も…最初は信じられなかったわ…。どうして、シャラがここに来ているのかって思ったけど…シャラは危険な立場にいるのよね…カヤンの件にしても…。今日、教導ノ師たちの会議があるの…。シャラの今後の処分について…。」
 リューサは、思わず立ち上がっていた。
 「な…なぜなんですか!シャラは何もしていない!カヤンの事を救おうとしていただけじゃないですか!それに、シャラの今の立場を考えてくださいよ!今、変な処分をしたら…あいつはどうなるんですか!」
 驚いたサリムが手で制したが、リューサの怒りは止まらなかった。
 「どうして…シャラだけこうなるんですか?サリム先生は、何も考えないんですか?あなたの生徒でしょう!?」
 そこまで言った時、サリムはバンッと大きな音を立てて、机を叩いた。
 びくっと身体を縮めたリューサを、怒りで燃える目で見ながら、サリムは堰を切ったように話し始めた。
 「ふざけたことを言わないで!今の自分の言葉を頭においたまま、よく聞きなさい!私が、シャラのことを考えていないとでも?そんなの大きな勘違いだわ!シャラは、今や私の……娘のようなものよ!そのシャラを、見捨てるって思ってるの!?それこそ卑劣な行いよ!あの子の秘密を知ったとはいえ、見捨てるほど私は腐っちゃいないわ!確かに、このことはトワラ星を統治するマーサー王に、お伝えしなくてはならない。もちろん、止め笛を使うなどの規則を破ったことは責任者の私も、教導ノ師たちも、共に厳しく叱責を受けるでしょう。だけど私は、別にそんなことどうでもいいのよ!言い訳ぐらい、最初から考えてある!私が今一番心配なのは、シャラがこのあと進む道のことよ!」
 サリムの目から、涙が流れ落ちた。
 「シャラはね、あの子の兄、スフィルから責任をもって預かっている子なのよ!スフィルが泣きながら、シャラを頼むって言ってきた子よ!それに、シャラは寝食も忘れてまで、カヤンの世話をし続けて、あそこまで回復させた!何事にも変えがたい、素晴らしすぎる成果だわ!」
 サリムの目から、急激に激情が引いていき、悲しげな目に変わった。
 「でも…その成果を、周りの人たちは、きっと、シャラの努力とは認めない…。あの子の目の色と結びつけて考えるに決まってる。それに、このことが知れ渡れば、シャラが、カウン国に連れ戻されるのは確実よ。…そんなこと、私は耐えられない…。何より、スフィルに申し訳ないのよ。…リューサ、あなた、シャラのことが好きって言っていたわね?」
 「はい。」
 「シャラに告白するならしなさい。そして、必ずシャラを守りなさい。わかった?」
 リューサは頷くと、シャラがいる獣舎へと駆け出した。
 サリムは、もう一枚、別の紙を取り出し、ため息をついた。
 (これを…)
 シャラが見たら絶望するのは確実だ。それに、聞かれるだろう。
 なぜこれを、あなたが持っているのか、と…。
 『いざという時、これを娘のシャラに託す。 アーシュ・カウン』
 こう書かれた封筒は、分厚いものだった。
 (父上…どうして…)
 サリムは椅子に崩れ落ちるように座った。
 (シャラが…私の本当の顔を知ったら…)
 シャラはしばらく、ショックで何も食べなくなるだろう。
 今だけは、何も伝えたくなかった。
 もう遠くなった、父のアーシュを思った。母のリヨンを思った。
 (もう一度でもいいから…会いに行けばよかった…。)
 結局、二人が逝くまでに、会うことができなかった。
 あの日…スフィルが連れてきたシャラの顔を見た時、目の前に閃光が走った気がした。
 シャラの中に、リヨンを見た気がした。
 ―サリム…シャラが生まれたからには、あなたをもう育てられない。だけど、貴族のレッカー家が、あなたの養子縁組を承諾してくれたの。そこで幸せになりなさい…。父親となる、ハジャン・レッカーはとてもお優しい方だから…。
 リヨンが泣きながらそう言っていた、七歳の遠く苦しい記憶。そう言いながら、さっきの封筒を渡された。
 いざという時には、シャラを探し出し、渡しなさい、と。目の前で、封を切ってもらえ、と。
 自分は、シャラを恨んでいたはずだった。
 さっきの自分の言葉を思い返しながら、サリムはぼんやりとそう思った。
 ―シャラは、今や私の……娘のようなものよ!
 手で顔をおおった。
 そんなはずはない…娘ではない…。
 シャラは自分の妹なのだ…それも、血の繋がった…義理でもなんでもない…実の姉妹…。
 (でも…)
 シャラは、果たして自分が姉である、サリミア・カウンだということを、認めてくれるのか…。
 (シャラ…あなたは一人じゃないのよ…。私がいるわ…。)
 まだ生まれたばかりだったシャラが、自分の顔を覚えているはずもない。
 サリムに、初対面の人に対するような挨拶をしてきたぐらいなのだから、覚えていないと考えるのが普通だ。
 だが、リューサにどうして言えなかったのか…。
 全て話す、と覚悟したはずだったのに…話すどころか、娘のようなもの…?
 ありもしないことを、はっきりと言ってしまった。
 だが、ふと思った。
 自分がレッカー家で、幸せに暮らしているその間、シャラはいくつもの困難を乗り越えてきたのだ。
 だが、辛い顔一つ見せずに、ここまで、カヤンの世話も頑張っていた。
 (あの子は…強い…。)
 スフィルも、ここから旅立つ前日に言っていた。
 『サリム、よく聞いてくれ。お前が葛藤するのは、よく分かる。何ていうか…シャラは妹だもんな。いや、それは置いといて…シャラは強い子だよ。何があってもめげないんだ。…だけどな、その分、苦しみを自分の中に溜め込んじまう。どこかで誰かが引き上げてやらないと、絶望っていう暗闇の中に、沈んでいくばかりだ。シャラは、無愛想だけど、とても優しくて自分よりも相手っていうタイプだ。俺はそんなシャラを、最高の妹として、誇りに思うよ。シャラをよろしくな。たくさん、サポートしてやってくれ。』
 サリムは、ぼんやりと考えをめぐらせた。
 自分だって、シャラのことを誇りに思っている。
 シャラは、本当に静かな子だ。ほとんど笑わないし、大声もめったに出さない。
 だが、それを埋めるかのような優しさがある。無愛想ながらも、感情を表に出さなくとも、必ず考えるのは自分のことよりも相手のことだ。
 様々なことを経験してきたからだろう…多くの「苦しみ」というものを知っているのだ。
 そこまで考えた時、戸を叩く音が響いた。
 「入りなさい。」
 用務のサラが引き連れて、入ってきたのは、アントナ国の急使だった。
 渡された手紙を見て、サリムはぞっとした。
 サラに、今すぐシャラをここに呼ぶように言った。
 サラが出ていってからも、震えが収まらなかった。
 手紙の文面が、何度も頭を去来する。
 シャラがこれから辿る、最悪な道をサリムは思い浮かべて、思わず目を閉じた。
 あとからあとから溢れて流れる涙を、サリムは拭うこともせずに、目を閉じていた。