次の日から、シャラの戦いが始まった。
 カヤンは、なかなか反応してくれないが、シャラは諦めずに竪琴を奏でながら歌い、話し続けた。
 「ほら、ご覧。草花が咲き乱れるこの場所を。精よ笑え。これらは全て、そなたのものとなる。泣くことはするな。そなたは笑いノ精なのだから。見てご覧。そなたの野が、美しき野となるよ。太陽の光、優しき風が合わさり、笑いノ精は笑顔を見せる。大切な人、出来ましたか?その人を、笑顔にしよう。笑いノ精、あの人に笑顔の贈り物を、してくれますか…?」
 「ねえ、カヤン。これね、笑いノ精っていう曲なの。私が大好きな曲なんだ。」
 「カヤン、お腹減らないの?私と一緒に、ご飯食べようよ。ほら、お肉だよ。私も食べようっと。」
 「私ね、お父さんとお母さん、いないんだ。カヤンと一緒だね。お父さんとお母さんがいないって、本当に辛いよね。」
 シャラは、決して止め笛を使おうとしなかった。
 使わなければ、心を開いてくれると思ったのだ。
 食事を運んでくれたのは、リューサ・ウィリアムという、六年生の先輩だった。
 それまで、カヤンの世話は、サリムとリューサがしていたのだが、やらせてみようということで、シャラに交代したのだ。
 リューサは、最初の方こそ、なんで後輩に、育てさせなくてはいけないんだ、という反抗的な態度だったが、シャラがカヤンの為に、身を尽くしていることを知ると、態度が一変して、とても優しくなった。
 シャラは、寝る時間も惜しんで、カヤンに語りかけ続けた。
 
 そんな気の遠くなるような日々が、四日間続いた時だった。
 わずかだが、カヤンに変化が起きたのだ。
 シャラン…シャラン…と、鳴いてシャラに応えてくれるようになったのだ。
 リューサもサリムも、そんな鳴き声を聞いたのは、初めてだと言った。
 サリムとリューサは、カヤンに話しかけるシャラを、遠くで見ながら、ため息をついた。
 「あの子は、本当に素晴らしい子よ。そう思わない?」
 「確かに。俺だったら、あんなふうに寝る間も惜しんでやることなんて、絶対にできないですよ。あいつに任せて、よかったのかもしれませんね。」
 シャラは、カヤンを野生のように扱った。
 まだ餌である肉は食べてくれないが、水は飲んでくれるようになっている。もう一息だった。
 だが、その、もう一息が遠かった。
 カヤンは、肉の匂いを嗅ぐようにはなったが、食べてくれないのだ。
 シャラは困り果て、檻の前で膝を抱えて考え込んでいることが多くなった。
 ほとんど寝食を忘れているようなもので、当然のごとく、目に見えて痩せていった。
 
 ある日、サリムとリューサがいる学長室に、珍しくシャラが来た。
 入ってきたシャラを見て、二人は息を飲んだ。
 シャラは、痩せ細り、顔は真っ青だった。腕や足に関しては、枝のように細い。
 「シャラ…お前、痩せすぎだぞ。ちゃんと食ってんのか?」
 シャラは、微笑んだだけで、すぐにサリムに顔を向けた。
 「サリム先生、お願いがあるのです。大量の紙とインク、それにペンを貸していただきたいのです。どうか、貸していただけませんか?」
 サリムは、怪訝そうな顔になりつつも頷いた。
 「いいわよ。ほら、これで足りると思うけど…もし足りなかったら、また取りにいらっしゃい。」
 礼を言って、また駆け出していくシャラを、サリムとリューサは不安げな表情で見送った。
 「あいつ…死なないですよね…不安で仕方ないんですけど…。」
 リューサの不安は、もっともだった。このままだと、シャラは倒れてしまうだろう。
 寮母のハンナに聞いたところ、さらに恐ろしいことが判明した。
 最近、シャラが返しに来てくれる朝餉や昼餉、夕餉などのご飯は、ほとんど減っていないのだという。
 (シャラ…)
 何かに取り憑かれたようなシャラのことを、サリムとリューサだけでなく、ウォーター学舎にいる全員が心配していた。
 
 シャラは、檻の前で考えたことを紙にまとめ、一つ一つを実行しては、選択肢を消していった。
 だが、そこまでしたというのに、どうしても解決の糸口を見つけられない。
 気がつけば、シャラは独り言を言いながらまとめ続けていた。
 「何か…何かがあるはずなのよ…!とにかく、考えないと…。カヤンと、あの時見た野生のイシュリとの違いは何?まずは、餌への関心よね…」
 紙に「餌への関心」と書いた。
 そこを、とんとん、と指で叩きながら考えた。
 (野生のイシュリは、親のイシュリが渡した肉を、喜んで食べていた…私は、カヤンに肉ばさみで肉を挟んで、カヤンの目の前に肉を置いているわ…。でも、これは多分あっている…野生のイシュリも、目の前に置かれた餌を食べていたもの…。何が違うのかしら…肉の種類?違うわ。なんの肉でもいいはずだもの…。カヤンとの距離?…ん?距離?……あっ!)
 わかった…どうしてカヤンが食べないのか…。
 シャラは、獣舎の壁板の隙間を見た。
 (下じゃない…上から光が来ている…。)
 上からの光…それは自分の上に何もいないということだ。
 イシュリは、他の動物でいうとペンギンと同じだ。親の足元で育つというのに、上から光が入ってくるということは、親がいないということを示しているのだ。
 (どうして気がつかなかったの…?こんな簡単なことに…。)
 激しい落胆を感じつつも、壁板を触ってみた。ほとんどの釘が緩んでいる。
 (…はがせる!)
 慌てて小さなスコップを持ってくると、釘と壁の間に突っ込んだ。
 そこで、はっとしてカヤンに語りかけた。
 「カヤン!今から、少し大きな音を出すわよ!びっくりしないでね。」
 すると、カヤンがシャラン!と、これまでになかった大きな声で返事をした。
 (わかってくれたの…?)
 シャラは疑問を感じつつも、釘をスコップで思いっきり外した。
 バキッ!ガタン!と、大きな音がして、横に何枚も連なっていた壁板が一気に外れた。
 カヤンを、ちらっと見ると平然としているが、目にはわずかな怯えが出ていた。
 寒気が背中を走った。
 カヤンは、間違いなくさっきの「びっくりしないでね」という言葉を、分かっていたのだ。
 ふと思い出して、カヤンの足元を見ると、光が胸のあたりまで来ていたが、怯えるどころか驚いてもいない。
 (今なら、食べてくれるかも)
 そんな思いが、頭にひらめいた。
 「カヤン…お肉食べる?」
 そう言うと、カヤンの目の前まで肉を持って歩いていった。
 ここ最近、カヤンは、シャラが目の前に行くと、甘えるような声を出して、すり寄ってきてくれるようになっていた。
 「大丈夫だよ。怖くないから、食べてごらん。」
 優しく言うと、目の前に肉を置いて、竪琴を奏でながら、笑いノ精とは違う曲を歌い始めた。
 「青い空へ、羽ばたく鳥よ。そなたは何を追い求め、そこまで羽ばたくのか。優しき光がさしこむ森の中。そなたが帰ったのは、大きな楠の上。そこが、そなたの安らぎの場なのだね。」
 羽ばたく鳥という曲だ。
 と、突然カヤンの目に、鋭い光が宿ったと思うと、目の前にある肉塊にかぶりついた。
 ちぎっては食べ、ちぎっては食べを繰り返している。
 シャラは、ロン…ロロン…と様々な音を組み合わせて、時折歌も入れながら、とにかく鳴らし続けた。
 それにあわせて、甘えた声を上げながら、カヤンは肉を食べ続けている。
 それを、食事を届けに来たリューサが、後ろから見ていた。
 驚愕と喜びが入り混じった顔で、そっと後ずさりすると、あとも見ずに学長室へと駆け出した。
 
 サリムは、書き物をしていた。
 「さてと、これでよし。」
 その時だった。けたたましい音で、戸がノックされたのは。
 「誰なの?」
 「サリム先生!リューサ・ウィリアムです!」
 「入りなさい。」
 その言葉が終わらないうちに、リューサが飛び込んできた。
 「サリム先生…早く…早く来てください!…カヤンが、餌を食べています!」
 「なんですって?」
 サリムは耳を疑った。あれほど何も飲まず食わずだったカヤンが?
 リューサに続いて走り、獣舎に飛び込んだ瞬間、サリムは凍りついたように動きを止めた。
 シャラが檻の内側にいる…。その前で、カヤンは肉を食べている。
 そして、カヤンが肉を食べ終わると、シャラは優しい音で子守り歌を奏でながら、ゆっくりと後ずさりした。
 カヤンが、眠そうな目になった。親の翼の下で、安心している子そのものだった。
 檻の戸を閉めて、こちらを振り向いたシャラの青い目に、みるみるうちに涙が溢れて、色白の頬を伝った。
 声を立てずに、涙を流し続けるシャラにそっと近づくと、サリムは微笑んだ。
 「よく頑張ったわ…。やったわね。」
 ほとんど放心状態になっているシャラを抱えるようにして、三人で獣舎の外に出た。
 
 サリムは、地面に座ってから口を開いた。
 「本当にすごいわ。これは、素晴らしい偉業なのよ。…どうやったの?」
 シャラは、涙のあとを気にしつつも話し始めた。
 「あの時もらった紙に、考えたことをまとめては実行していたのです。色々と考えていたら、光について気がついたのです。」
 サリムとリューサが、不思議そうな顔をした。
 シャラは微笑みながら、獣舎の剥がした壁を指で示した。
 「あれをご覧ください。私は、カヤンが怯えたようになっているのは、止め笛のせいではなく、光が上から差し込んでいたから、ということが分かったのです。」
 サリムは、ますます不思議そうな表情になった。
 「どういうこと?」
 「おわかりになりませんか?上から光が差し込むというのは、自分の上に親がいないということです。カヤンは、親がいないのに餌が目の前に置かれるから、不安になって食べなかったのです。徐々に、ずっと声をかけ続ける私が親だと認識し始めてはいましたが、上が明るいからか、声がするだけで近くにはいない、と認識していたようです。そこで、上の天窓を塞ぎ、下の壁を剥がしてみたら怯えるどころか、安心したようになっていました。その時に檻の中に入り、声をかけながら餌を置いたところ、食べてくれたのです。」
 そしてシャラは、壁を剥がした時に、カヤンが自分の言葉を分かっているようだったことを明かした。
 サリムは頷くと言った。
 「そこまで尽くしてくれているんだもの。シャラに心は開くでしょうし、ずっと人間の言葉で話しているんだもの。慣れたんでしょうね。…さて、当初の約束通り、あなたにこれからカヤンの世話を任せるわ。そのままの世話の仕方でお願いしようかしら。いい?」
 明るい顔で頷くシャラを見ながら、サリムは黒々とした不安が湧き上がってくるのを、どうしても抑えられなかった。
 (この子は…最高の奇跡を起こした…。だけど、これはイシュリなどの獣を…止め笛を使わずに世話できる唯一の人になったも同然…。それに、獣と心を通わせている…。この子は…この先どうなってしまうの…?)
 このサリムの不安は、後に当たることになってしまう。
 シャラはこの日、決して開けてはならない扉を開けてしまったのだ。
 だが、それにシャラが気がつくのは、もっと先のことになる。
 この奇跡が起こったのは、シャラが来てから、既に二週間が経った日のことだった…。