いち君が椅子を少し引いて体ごとこちらを振り返る。
その双眸はひどく真剣で、彼の手がドライヤーを掴むとスイッチを押して停止させた。
「何もないよ。あの時吉原さんは、俺の頬に汚れがついてると言って取ろうとしてくれたんだ。君と少し打ち合わせに行くのに笑われるって言って、もう少し屈むように頼まれた」
言い終えると、彼の喉元がコクリと上下する。
「彼女がいち君のことをはじめさんて呼んでたのは?」
「呼ばれたことはない。というか、樹から聞いてもしかしてと思ったんだ。触り方が変だったし。彼女に聞いたら……そうするように仕向けられたんだって、話して謝ってくれた」
いち君が苦虫を噛み潰したように眉をひそめ、瞠目する私に教えてくれたのはあまりにも勝手な話。
「秘書の坂巻さんが、脅してきたらしい。辞めたくないなら俺と君が別れるように動けって」
「なんで」
と、言いかけて、東條社長のことを思い出した。
別れさせたい理由なら十分あったのだ。
「あの、私、あなたのお父さんから別れるように、言われたの……」
「それも聞いた。昨日、全部坂巻さんに確認したよ」
そうか。
吉原さんは、私たちのことに巻き込まれたのだ。
なのに何も知らなかったとはいえ疑って、なんだか彼女に申し訳ない気持ちになる。
いち君に「社長が頼んだの?」と聞いたら、どうやら坂巻さんの自己判断で動いていたことらしい。



