いつもと同じ部屋のはずなのに、知らない部屋みたいにひっそりとしている

橙色の夕日が窓から差し込み、暖かく部屋を照らす

コトっと目の前の机にマグカップが置かれた

くすんだクリーム色に紺のボーダー

儚い湯気がほわほわとまわりを包み込む

無言でそれを手に取り、伝わってきた予想以上の熱さに驚いた

自分が思っていたよりも冷えていたようだ

カップを寄せ、チャイを口に含む

「あっつ!?」

「んっふふぅっふ」

隣に座っている妻が吹き出す

相変わらず変な笑い方だな...

ツボに入ったのか、腹を抱えて笑い出した

もう何十年も一緒にいるが、いまいち笑いのツボがわからない

「いつまでたっても猫舌なのね」

ひと通り笑い終えた和花(かずか)が目尻にたまった涙を拭い、言った

「どうしても熱いのは苦手なんだよ」

同じ失態は犯すまいと、ゆっくり口へとカップを運ぶ

甘いミルクと紅茶、少しのスパイスに強めの生姜の香り

和花の手作りのチャイは、異常なほどに生姜が入っている

「...辛い」

「そのくらいが丁度いいのよ、あったまるし」

確かに暖まりはする

身体の芯から心地よい暖かさに包まれていく

けど、正直喉がつらい

もう慣れたことだからいいんだけれど

「ほかの辛いものは苦手なくせにな」

「生姜は別なのよ〜」

和花がマグカップを机に置く

くすんだクリーム色に白のボーダー

また部屋に静寂が訪れる

夕日だけが、自分たちを照らす

「...長生きする自信あったんだけどなぁ」

重苦しい沈黙を破ったのは和花だった

「父方と母方のひいおばあちゃんどっちも長生きだったから、二人に似てた私も100歳くらいまで生きる気満々だったんだけどね」

何も言えなかった

話題に出しずらかったことを、意外な程に明るく話し出した和花に驚いた

でも、すぐに納得がいった

「いつお迎えが来てもおかしくない歳だものね〜」

本当は弱いくせに強がって、いろんな感情を自分で守り押さえつける

もう一生治らないであろう和花の性格

この小さな体で、どれほどの傷に耐えてきたのだろう

細い指をそっと握る

シワシワになった手はとても冷たかった

「...どうしたの?」

そう言いながら微笑み、握り返してくる

何も答えずにさっきよりも強く握って、指を絡ませる

自分の方が怖くてたまらないはずなのに

何でこんなに強く振舞おうとするんだ

残酷なほどの強さを、自分を壊すほどの優しさを、和花は持っている

ギュッと和花を抱きしめる

驚いたのか一瞬体がこわばる

しかしそれもすぐに解け、俺に身を任せた

背中に手がまわり、ゆっくりと撫でられる

「ごめんね、貴也(たかや)」

自分がとても情けなく感じた

ふるふると首を左右に振った

「...ごめんな、しっかりしてなくて」

形の良い頭を撫でる

サラサラな髪が夕日の光を浴びて、綺麗な茶色に輝いている

「貴也、貴也は何も悪くないよ?」

「違うっ...、違うんだ」

肩を掴み目を合わせる

和花はすぐに目をそらした

「和花」

和花は顔をあげない

「もう、一人で溜め込まないでくれ」

和花の肩が震える

「本当は、...怖いんだろ?」

「何言ってるのよ、もう81よ?いつ死んだっておかしくない年だし、だから、だからね、全然だいじょうぶ」

『だいじょうぶ』
和花の口癖

しかもそれは大丈夫じゃない時ほど言うことをよく知っている

「全然大丈夫なんかじゃないだろ」

薄い肩を引き寄せる

すっぽりとおさまった体は弱々しく、ほんのりと伝わってくる体温になぜか安心感を覚え、またそれが悲しかった

どのくらいそうしていたのだろうか

和花の体が震えた

遅れて小さな嗚咽音が聞こえてくる

それは段々と大きくなり、そして、泣き声に変わる

「...怖い、まだ生きたい、あなたと...離れたくないっ...」

和花は俺の胸にしがみついて泣いた

机の上のチャイはすっかり冷め、部屋には二人の老人の泣き声だけが響いていた



゚・*.。..。+゚・*.。..。+゚・*.。..。+゚・*.。..。+゚・*




その日の夜に夢で見たのは、今日の病院でのことだった

医者が淡々と事実を突きつけていく

和花の脳に腫瘍ができていた

見つかった時にはもう、遅かった

医者の声が頭の中で反響する

『余命はあと半年かと』

俺たちのシアワセ ノ カウントダウンが始まった