月と握手を

「やった……やったわ!」



 潤んだ楢橋さんの声にハッとすると、彼女の瞳には涙の粒が浮かんでいた。でも、その表情は、雨に濡れても尚美しい花のようで。“諦めないこと”を教えてくれた楢橋さんが、私にはとても眩しかった。

 ――頭の中で、シャッターを切る微かな音が聞こえた。それは“描きたい”という、私だけの合図。病室にある鉛筆やスケッチブックを求めて立ち上がろうとする私の心を察して、楢橋さんが「待ってて!持ってくるわ」と言って走り出した。

 いつの間にか夕暮れ時になっていたことに、白い大地を埋めていく途中で気付く。楢橋さんに代わって別の看護師が持ってきてくれた夕食もそこそこに、満ちていく途中の月の光を感じながら、下書きを終える。そうしたら、いよいよ絵に命を吹き込む番だ。

 ――楢橋さんは、命の象徴のようなオレンジではないだろう。小さくて、でも、燃えるような血潮の色。そんな花が沢山集まったような人が、彼女だと思う。



「……あら、素敵ね!それ、何処に咲いてたの?」



 見かけない花だけど、と続けたのは楢橋さん。仕事が一段落したのか、私の様子を見に来てくれたらしい。

 ――この人、自覚がないんだ。慧亮と似てる、かもしれないな。「……何処にも咲いてないよ。これ、楢橋さんをイメージして描いたから。」

「えっ、私!?」

「そう。大きい花が存在感たっぷりって訳じゃなくて、小さい花がひっそり佇んでる訳でもない。何ていうか、野原に咲いてるオオイヌフグリのイメージだったんだよね。」



 だけど、色は“それ”じゃないと思った。楢橋さんが頻繁に見ているであろう患者の青ざめた顔の色ではなく、彼女の中にあるであろう秘めた情熱の色。“一つでも多くの命を救い、癒す”ことが、雨の雫を弾きながら、絵に表れていなければならないと思ったのだ。

 彼女はきっと、隠れて何度も泣いたことがあるだろう。仕事で失敗した時・患者の気持ちを汲み取れなかった時・目の前で命が消えた時……でも、決して悔しさや悲しさに飲み込まれなかったのだろう。

 そして、見ているだけで、何故だか愛でたくなる。そんな看護師に、彼女はなっていくのだろう。 この絵に名前を付けるとしたら……そうだな、どうしようかな。ナイチンゲールが“戦場の天使”って呼ばれたんなら、楢橋さんは『病室の天使』だな。

 真っ白い無機質な部屋でも、片隅にこんな花があれば、“もう一度生きたい”という誰かの思いを呼び起こすかもしれない。この人には、そんな人になって欲しい。要らぬお節介だろうけど、そう思った。



「――良かったの?大切な作品をあげちゃって。」

「良いの。私、自分が描いた絵は全部覚えてるから。」

「……そっか。ま、今日は宵月だしね。良かったじゃん、理解者がまた一人増えて。」



 今夜の月には“求めるものを引き付ける力”があるのだと、ハルが教えてくれた。私はただ、あの絵を楢橋さんに持ってて欲しかっただけなんだけどな。でも、ハルが言うことは、あながち間違ってないと思う。

 ページを破いて手渡した時の、楢橋さんの表情が蘇る。「ありがとう」と笑った彼女の瞳には、やっぱり涙が浮かんでいたから。あの絵に雫を添えたことに、私は密かに満足だった。



「そういえば、近々また慧亮が来るんだって。」

「うわ、彼氏に対して淡白じゃない?もっと嬉しそうに言えば良いのに!」

「……何とでも言えば?」