「柘季ー!起きてっかー?」

「……うるさいよ慧亮。この時間にはもう起きてるって知ってるよね?いつからここに通ってんの?」

「そう冷たいこと言うなって。折角良いもん持ってきてやったんだからさ!」



 世間で言う雛祭りの、午後3時半過ぎ。丁度この時刻に空で輝いている太陽みたいに笑う、透き通った濡れ茶色の髪の少年が、私の病室を訪れた。彼は夕部(ゆうべ)慧亮。16歳の時からずっと私の側に居てくれている、大切な人。

 それにしても、“良いもん”って何だろう。ここから100メートルくらい離れた所にある老夫婦の家の庭から折ってきた桃の花、なんて言ったら、馬鹿って叫んでやろう。



「今日、雛祭りじゃん?だから買ってきたんだけど、もしかしていらない?」



 ニヤリとした慧亮が、背後に隠していた右手をスッと体の前に出す。彼の手に握られている取っ手付きの四角い箱に、フランスではガトー、スペインではパステルと呼ばれる物が入っていれば良いんだけど。

 生憎私は病床の身。入院中は決して渡されることのないケーキを恋しく思いながらも、慧亮が持ってきてくれた、宝石みたいに輝くゼリーに彼の優しさを感じた。「……大学の課題あったんじゃなかったの?」

「ん?100枚スケッチなら心配すんな!春休みはまだまだ長いからな。少しでも柘季と一緒に居たいなぁと思って。
今更だけど、食欲ある?ゼリーって結構日持ちするからさ、冷蔵庫に入れといて、食べたい時に食べなよ。」



 慧亮は思ったことを包み隠さず言葉にしてくるけど、他人への思いやりを忘れない人だ。それは、出会ったあの頃からずっと変わっていない。

 ――あぁ、この人は律儀というか、何というか。私をとても大事にしてくれているんだ。改めてそう思ったら、胸の奥がじんわりと熱くなってきた。



「慧亮……ありがとう。」

「どういたしまして。20個くらいぎっしり入ってるからさ。良かったら、隣のおばあさんとかそこのちびっこ達にも。お節介かもしれないけど、同室の人達とは仲良くした方がいいよ?」



 愛弟子に教えを諭す師匠みたいに言われて、頷くしかなかった。慧亮の言うことはもっともだ。隣のおばあちゃんはともかく、ちびっこ達は入院当初、よく話しかけてくれていた。だけど、私があまりに無愛想だから、“怖いお姉ちゃん”だと感じて離れていったみたいだ。
 家族と慧亮以外の人には、ずっと心にシャッターを下ろしてきた。やっぱり、このままじゃいけないのかな。まだ迷いのある視線を、心配そうにしている慧亮から、最近新たに加わった話し相手に移してみる。

 白いワンピースに黒紫の髪をした女がニコリと微笑む。彼女の黄金の瞳は、“勇気出してみたら?大好きな彼氏もそう言ってるんだし”と語っているように見えた。



「……柘季。おばあさん、検査から帰ってきたよ。」



 慧亮が小声で私を呼ぶ。冴木久方(さえき ひさえ)さんというのが、隣のベッドを使っている人だ。

 人の心を掴む第一声なんて知らない。だけど、ここに来てから限られた人間以外との接触に意義を感じなかった私にとって、この行動は特別な、とても大きな歩みになるはず。だから、無性に喉が渇く。緊張しているその場所が、呑み込んだ唾でゴクリと音を立てた。

 私は今まさに、固く閉ざしていた扉を開ける。掌に力が入った。



「……柘季ちゃん、リラックス。柘季ちゃんならできる!」



 ――私にしか聞こえないあいつの声がしたら、不思議とそんな気がしてきた。私なら絶対に大丈夫。根拠のない自信を、その声がくれたから。「あ、あの……これ、良かったら一つどうぞ。沢山もらったので……」



 慧亮からもらった箱を開けて目の前に差し出すと、隣のおばあちゃんこと冴木さんは、きょとんとした顔で私を見つめてきた。初めてまともに向き合った彼女は、ウィステリアというかライラックというか、そういう感じの色を、うっすらと白い髪に馴染ませていた。雪のようなキラキラとした輝きを演出しているのが、とてもお洒落だ。

 ただ“紫を入れれば素敵に見える”と勘違いした、濃い色を入れる美容師の餌食になったおばさん達が、世間には多いらしい。でも、それは大きな間違いだ。“まぁお洒落。お近付きになりたいわ”、どころか“まぁ怖い。近寄り難いわ”という印象を与えてしまうから、美容院に行く時は気を付けた方がいいと思う。

 それにしても、冴木さんはいっこうに、私の言葉に何も返してくれない。“無愛想なお嬢ちゃんが改心したなんて珍しいわね”と思って驚いているのだろうかと考えていた、その時。のんびりとした柔らかい声が、春風に乗って私の耳に届いた。



「あらあら……ご丁寧にありがとうねぇ。私、ゼリー大好きなのよ。キラキラして綺麗よねぇ。何味があるのかしら?」
 痩せこけた体を病院から配布された浴衣に包んだ冴木さんは、皺の入った小さな顔でニッコリ笑った。ビー玉のような愛らしい瞳が、クシャリと隠れる。

 私は彼女のベッドの方へ身を乗り出して、これが苺でこれがぶどう、こっちは桃で……と、ゆっくり説明してあげる。彼女は相槌を打ちながら、「どれもおいしそうねぇ」と笑う。身内におばあちゃんと呼べる人が居なくなった私にとって、冴木さんはそういう雰囲気を醸し出しているから、何だか甘えたくなった。



「じゃあ、桃を頂こうかしら。今日は雛祭りでしょう?私もお嬢ちゃん達と一緒に、お祝いさせてもらうわね。」



 ありがとう、と言って私の手からゼリーとプラスチックのスプーンを受け取る皺だらけの手は、とても温かかった。いつだったか、今は亡き母方の祖母に、お見舞いの品としてみかんが入った袋を渡したことを思い出す。



『あらあら、ありがとうねぇ。柘季ちゃんは優しい子だから、きっと良いお嫁さんになれるわよ。』



「――おばあちゃん……」



 口に出してから、ハッとした。子供達は騒いでいるから気付いていないけど、冴木さんと慧亮には、しっかりと聞こえてしまっていたのだ。「ご、ごめんなさい!私、身内におばあちゃんって呼べる人が一人も居なくて……冴木さんと話してたら、一番好きだった母方のおばあちゃんのこと思い出しちゃって……」



 あぁ、かっこ悪い。一人慌てる私の不自然さに、ちびっこ達もようやく気付いたらしい。“あのお姉ちゃんどうしたの?”、“さぁ……”と言いたげな視線を誰もが送ってくる。

 今すぐこの場から逃げ出したいという気持ちが沸き上がってきた、その瞬間。皺くちゃの柔らかい手が、一日の大半を室内で過ごしている私の青白い手を、そっと包み込んでくれた。



「良いのよ?おばあちゃんって呼んでくれても。私には、お嬢ちゃんより少しだけ小さい孫が居るんだけど、最近じゃ、ちっとも来てくれなくってねぇ……息子夫婦も、全然顔を出してくれないのよ。
だから、お嬢ちゃん……柘季ちゃんが“おばあちゃん”って呼んでくれて、とっても嬉しいの。良かったら、時々話し相手になってちょうだいねぇ。」



 ――あぁ、何だか心があったかい。名前で呼ばれたことに、思わず笑顔がこぼれた。隣に居る慧亮を見つめると、彼は穏やかに笑んでくれた。“良かったな”と、そう言っているみたいに。