山南が入門してひと月あまり経った安政七年(1860年)三月三日。

 江戸には大雪が降り積もっていた。
上巳の節句であるこの日は、江戸に住む大名全員が、賀詞を述べるために登城する日でもある。

そんな日に事件が起こった。

 一橋派と南紀派に分裂し争った十三代将軍家定の嗣子(しし)問題も紀州藩主・徳川慶福(よしとみ/後の家茂)を擁立する南紀派・井伊直弼が勝利し、日米修好通商条約の勅許無き締結、そして一橋慶喜を擁立した一橋派であった水戸藩への報復と尊皇攘夷派への弾圧として俗にいう安政の大獄を発動し、時の権力を掌握したはずの大老・井伊直弼が、江戸城桜田門外にて水戸脱藩浪士ら十八名に襲撃されたのである。

 時刻は五ッ半、およそ六十名の井伊家の大名行列が粛々と江戸城桜田門へと雪道を進んでいた。

 杵築(きつき)藩邸門前を通り桜田門に向かって左折しようとした辺りで直訴を装った襲撃者の一人、森五六郎が行列の先頭に躍り出た。
そしてそれを押さえようとした行列の供頭と供目付を斬りつけ、一発の銃弾が放たれた。

 黒沢忠三郎が井伊直弼の駕籠に向かって撃ったその銃砲が合図となり、潜んでいた襲撃者たちが、乱れた大名行列の隙を狙って井伊直弼の乗る駕籠を目がけて左右から一斉に斬り込んだ。

 黒沢忠三郎の撃った銃弾は、駕籠の中の井伊直弼の腰辺りを貫通し、そして駕籠ごしに襲撃者たちは、何度も井伊を刺し、引きずりだした井伊大老の首を斬り落としたのだ。

 この襲撃の指揮を執ったのは、大老要撃のために前年に水戸藩を脱藩していた関鉄之介。
大老の首級を挙げた有村次左衛門は、彦根藩士・小河原秀之丞に背後から斬られ致命傷を負う。