黒船が来て以来、世間は剣術一色に染まっていたから、歳三のような修行をしていても「ペルリが来てから、おかしな奴が増えたな」と思われるだけなのだ。

 商売のついでに腕を磨く、まさに歳三にとっては一石二鳥。

流派が違えば技も間も呼吸さえも違う。
やるたびに目新しい事ばかりである。

来る日も来る日も歳三は、行商と称して剣術修行を繰り返した。


 こんな武者修行が、四年も続いていた。
この空白の四年感という短い時の中で、時代は大きく揺れていた。

 安政元年(1854年)には、ペリー率いる黒船が再び来航。
その圧倒的な武力の前に歳三の思った通りなす術のない徳川幕府は、日米和親条約を結び、二五〇年続いた鎖国は終わった。


 同年十一月未明には幾内から江戸にかけて大地震が発生し、死者はおよそ三千人も出た。

 翌年の安政二年(1855年)の十月二日の夜半には、江戸で直下型地震が発生した。

江戸の死者は約四千人も出たという。


 そして、安政5年(1858年)。
ついに幕府はアメリカ国と不利な条約を結んでしまう。

日米修好通商条約が調印されたのだ。
七月には日蘭、日露、日英。
九月には日仏の間で条約が結ばれた。


この時、歳三は二十四歳となっていた。
その時もなお歳三の、奇妙な薬の行商は続いている。


「ごめんくださいやし。薬屋でございます」


 歳三が訪れた篠原道場は剣術修業を始めてから得意先となっていた。
しかし、この日はいつもと空気が違う。

普段は活気溢れ、和気藹々と稽古に打ち込んでいるというのに、道場内は異様なほど殺気立っているのだ。