雨の中の惨劇から二日経った九月二十日。
壬生の前川邸にて芹沢と平山の告別式が神式で行われた。
壬生浪士組の隊士八十名あまりが紋付袴で参列し、その他坊主や、会津藩兵、芹沢と平山の郷里である水戸藩の者など、大勢の関係者が集まる中、勇は辛辣な表情で弔辞を読み上げた。
「尽忠報国の士、芹沢鴨先生、平山五郎先生のお人柄の豪快にして、明朗快活であられたことは、われら誰もが知るところです。
われらは今、芹沢先生という大きな柱を失い、悲しみに堪えません。
しかし、この悲しみを力に変え、われら壬生浪士組は先生の崇高なる志を継ぎ、ますます励み、ますます前進していきます」
隊士たちはまさか隊内の者同士が斬り合ったとはつゆ知らず、
「長州の奴らがやったらしいぞ」
「下手人は長州か」
「しかしあの芹沢先生を、許せん…」
「いくら酔っ払って熟睡していたとはいえ、芹沢局長ほどの人を殺して、証拠も残さずに逃げたとは、敵ながら天晴れだな」
と囁き合っているのを、八木源之丞の息子、為三郎は聞いていた。
為三郎はあの日の顛末を知っている。
芹沢、平山が斬殺され、平間が咽び泣きながら刺客を探していたことも。
幼心に話してしまったら巻き込まれて殺されてしまうのではないか、と察知し口を開く事はしなかった。
告別式が終わると棺をかついで壬生寺にへと向かった。
前川邸から壬生寺までは目と鼻の先だが、行列の先頭が壬生寺に到着した時、最後尾はまだ前川邸を出ていないほど膨れ上がった壬生浪士組。