翌八月十八日、未明。
会津藩から支給された中古の甲冑を着込んだ勇を見て、歳三はまるで戦国武将さながらの勇姿にゴクリと息を飲んだ。

「かっこいいぜ近藤さん」

歳三と勇はこれから戦になるやもしれんのに、期待に胸踊らされていた。

「トシ、準備はいいか?」

「当たり前さ」

 その頃、御所では中川宮をはじめとする公武合体派の公卿が参内し、九つの門が閉じられ、長州人がいない中、朝議が行われた。

未明から呼び出されて眠そうな目をしていた公卿たちは、話をきいて驚いた。

「では長州を、完全に追い出すのですか!」

「そこまでやっては、長州を刺激しすぎるのでありませんか?」

「なんの、やるなら徹底してやるべきです」


結局、長州を追い出す方向で話がまとまり、それまで長州に任じてきた御所の南側、堺町門の警護の任を解き、長州系の公卿の参内を禁止し、長州藩主・毛利敬親(もうりたかちか)に、ただちに京都退去を命じることとなった。

 そして孝明天皇から、ほうぼうに宣旨を下す。

「今回の大和行幸は、逆臣にそそのかされたもので、朕(ちん)の真意ではなかった」

朝、三条実美ら尊皇攘夷派の公卿たちが参内すると、すでに御所の周りは薩摩と会津の兵士たちがびっしりと固めていて、訳の分かっていない公卿達は困惑した。

「どうなっているのじゃ。
いったい何がどうなっている!」

「けして通すなと申し受けております!」

「なんじゃと!」

一方、長州の兵士たちは連絡を受けて堺町門に押し寄せたが、しかし、自分たちの持ち場であるはずの堺町門もすでに薩摩、会津の兵士たちが固めていた。

「なんだこれは。
いったい、なんの真似だ。どけ!」

「どかん!」

双方、大砲を構え、小銃を構え、にらみ合いとなってた。

 その頃、壬生村の浪士組屯所に、早馬の使者が到着した。
会津藩公用方の野村佐兵衛(のむらさへえ)である。

「局長の芹沢鴨殿はおられるか!」

「ワシが芹沢だが」

「拙者は会津候公用方、野村佐兵衛と申す。
会津候より伝令!
壬生浪士組はただちに出動し仙洞御所を御護りせよ!」

「いよいよだ。
壬生浪士組の初陣(ういじん)じゃ、行くぞ!」

芹沢の一言で隊士達は「おう!」と気勢をあげた。

(新見、行ってくるぞ)

芹沢は新見の白地に黒のダンダラの隊服を見て未だ帰らぬ新見に向けて、心の中でそう言った。
勇と芹沢は手早く烏帽子をかぶり、隊士八十名を二列にして、赤地に大きく「誠」と入った旗をかざして、御所へと向かった。