「帝が大和へ行くというのか!
尊攘派の公卿達とともに!?」

 会津藩公用方より報せを聞いた勇はギョッと驚いて立ちすくんだ。

「未だ国論が公武合体のひとつにまとまっていない時に…」

「攘夷親征…。
おそらく帝が陣頭に立って攘夷断行となれば、否が応でも国論はひとつにまとまる。
公武合体ではなく、尊攘に…」

山南はそう言うと、勇はさらに訳の分からない顔をした。

「それでは幕府の立場はどうなるんだ。
せっかく上洛なさった大樹公は」

「いかに攘夷を強く願う帝であっても、今回の大和行幸。
本当に帝が望んだものなのか、おそらく裏で糸を引いている者がいるんでしょう」

「…長州藩だろうな。
奴ら尻尾出しやがったぜ。
この機に帝を大和に…いや、長州まで遷(うつ)し参らせ倒幕の兵を挙げるって考えじゃねえか」

歳三はそう言った。
国難の時だというのに、歳三はどこか嬉しそうな顔をしている。

「勝っちゃん、戦になるぜ。
俺らがガキん頃から夢みてた国(徳川)の為の戦に」

勇は歳三を見て、あぁ。と強く頷いた。

 しかし、長州の計画を見抜いていた人物がいた。

「畏れながら、主上に奏上したき義がございます」

文久三年(1863年)八月十七日。
 公武合体派の中川宮尊融(なかがわのみやたかあきら)親王は御所に参内し、孝明天皇への直接面会を求めた。

 中川宮は剃髪(ていはつ)して興福寺一乗院に入られ法親王となった人物だが、日米修好通商条約の勅許に反対したたことと、将軍、徳川家定(とくがわいえさだ)の後継者として、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を支持したことから大老・井伊直弼に目をつけられ、安政の大獄で永蟄居(えいちっきょ)、つまり謹慎を命じられていた。

しかし井伊直弼が桜田門外の変で斬られた後は赦され、政界に復帰していたのである。
その中川宮が、孝明天皇に直接、奏上したのである。

「此度の大和行幸は中止なさってください。
なんとなれば、長州の奸賊どもが、行幸に際し御輿を奪い奉って、乱を起こそうと企んでおります」

「なんと!そのような企みであったのか…。
どうりで話が急すぎると思ったわ」

普段から急進派である長州の尊皇攘夷派を快く思っていなかった孝明天皇は、中川宮の進言を受け入れ、大和行幸を中止したのである。