周斎の姿は見えなかった。
勇と対峙するフデの表情は何を言いたいのか読み取れない。

最後は喧嘩別れのようなものである。
気まずい空気が流れ、しばらく無言。

「お忙しい中急にお呼び出ししてごめんなさい」

フデはそう言うと頭を下げた。
真意がわからない。

何の用か、勇が聞こうと少し腰を上げた時に、ぽつりぽつりとフデは自分の半生を思い出すように言葉を発した。

「私は以前話した通り、もとはと言えば農民の娘でした。

身売りをされて牛込町で芸者をしている時に夫に見染められ、武家の娘になれた。
そう思っていたのに、あなたの義父も元はといえば小山村の百姓。

私は人生を恨みました。
子宝に恵まれない私達に養子をとろうと話になり、夫が選んだのは、それもやはり武士の子ではなく多摩の百姓の倅。
つまり貴方」


フデの物言いは、いつも以上に穏やかで、言葉を選びながら、優しく繊細な語り口調であった。


「私はあなたを憎んでいました。
あなたに罪がない事を分かりながらも…。

多摩の百姓として生まれ、武家の娘を嫁に迎え入れ、宗家四代目。

順風満帆に進んで行くあなたの人生。
百姓の身分でこれ以上に幸せを掴み取ろうとする傲慢なあなたが許せなかった」


勇は何も言えなかった。
たしかにフデの言う通り、それだけでも出世なのだ。


「しかしあなたの苦悩というのを私は知らなかった。
あなたも私のように武士に憧れ、もがきながら生きてきた。

武家の嫁になりたかった私。
武士になりたい養子のあなた。

私はあの時悟ったのです。
『武士よりも武士らしくなると、誰よりも武士の心を持った百姓になると決めたのです』
とあなたは言った。

試衛館に来てから自分の行く末に苦悩をしていたという事に、その言葉を聞くまで気付きませんでした。同時に思い出しました。
私も同じ気持ちで、夫婦になった事を」

フデは勇の手を掴んだ。
昔この手で何度も叩かれ、殴られてきた。
何年振りに触れたであろう手は、あの時の冷酷な冷たい手ではなかった。

「数々の非礼、お許しください」

フデはそう言い頭を下げた。
勇はその気持ちだけで十分であった。

「武士よりも武士らしくなって多摩に帰ってくるのです」

「はい」

硬く手を掴み合う二人。
お互い、同じ気持ちで今まで生きてきたのだろう。

「行ってらっしゃい。……勇」

初めて呼ばれた“勇”という名前に、胸が熱く込み上げてきた。
長年、胸の内にあったわだかまりがお互い解消されていく。
勇とフデは互いに涙を流し合い、ようやく二人の間に〝母子〟という感情が芽生えた。

「母上、行ってきます」

二人は照れ臭そうにはにかみあった。
もう雪解けの春は近い。