日本に戻ってからの葬儀もまた、壮大だった。
日本企業の重役としての父の弔いを、とても家では行いきれず、
やはり近所の大きな寺を借りてのものだった。 
 通夜。喪服姿で紙のように白い顔をした母は、美しかった。
その母の隣で、祥子は次々と焼香する夥しい数の人々の足元をぼんやりと見ながら、
機械的に頭を下げ続ける。
 不思議だ。誕生日にも結婚記念日にも、多くの日本人は家に人を招いてパーティーをしたりしない。するとしても少数派だろうし第一招く人数の数がもっと少数だ。
最近では結婚式ですら披露しない人たちもいる。でも葬儀は別だ。
おそらくほとんどすべての人が、家族が亡くなれば葬式を挙げる。
そう。ホームパーティーが趣味で、人を招くことに生き甲斐を感じている人達から、
引きこもりがちで、その家に人を招くことなど
強度のストレス以外何ものでもない人達まで、すべて。
 しかしそれは正しく的確な現象だ。祥子は考える。
愛する人を、掛け替えのない人を失った人々が、
当日、二日目三日目と、いったいどのようにして過ごすというのだ。
 まず考える。話しかけないで。放っておいて。一人にして。でも結局数時間ももたない。たった一人で毛布にくるまるまでには、数日間の『やるべきこと』が必要なのだ。
だから皆、まずは力を合わせて葬儀を行う。最期に一目逢いたいと、
遠方からも人々が訪れる。そして一丸となって向き合うのだ。今目の前にある死と。
その死を受け入れられずに途方の暮れている人々を支えるべく。
いつかはそうされる逆の立場として誠意を持って。
 不思議だ。不思議でほんの少し優しくて、
そして哀しい。