「!」
「…勇者?」
 自分でも訳が分からずとっさに陛下を見返すと、彼は金色の瞳を見開いていた。
 その表情に、勇者の頬が「かっ」と熱くなる。
 まさか…、泣いてる?
「どうしたのだ、勇者」
 陛下が立ち上がる気配がした。
 ソファとテーブルに挟まれて逃げ場のない勇者は彼から顔を背けた。
「もしかして、どこか痛めたのか?」
「…ちがうから!」
「ならば、どうしたのだ」
 陛下が顔を覗き込もうとしてくるものだから、勇者は慌てて彼の胸を押しやる。
「こっち、見んな、ばか!」
「訳をお言いよ。泣いていては分からんよ」
 優しい声だった。
 つい一瞬前まで零下の瞳で笑っていた竜は、チョコレートをくれた親切な男に戻っていた。
 そのことがかえって勇者を混乱させる。
「…あ、あんた、なんなの?」
「うん?」
「どうして、あんな、じ、じぶんで…」
 それだけ言うと、もう声が続かなかった。
 陛下はしばらくの間、顔を真っ赤にして泣きじゃくる『人間』の娘を眺めていたが、
「怖かったのか?」
 ぽつりと言う。
 その言葉に勇者がびくりとすると、彼はため息をつく。
「泣くほど?」
「…う、るさい」
「ふむ…」
 それからまた少し黙った後、陛下は短く言った。
「すまん、やりすぎた」
「…」
「僕が大人げなかった」
 勇者が無視をしていると、
「ご覧、勇者」
「…うるさい」
「いいから。ご覧よ」
 甘やかすような声で囁いて、勇者の手を取る。
「放せ、馬鹿…」
 思わず彼を睨み上げた勇者の目に映ったのは、彼の白い首筋だった。
 先ほどの浅い傷…。
「?」
 完全に血が止まり、すでに薄く皮が張り始めていた。
 きょとんとする勇者に陛下は微笑む。
「明日の朝には痕さえなかろう。この程度は傷とは言わん」
「…どうして」
「君たちとは代謝が違うのだ」
 天使の容貌で笑う男。
 綺麗で清潔な居室で生活し、皮膚を破れば赤い血が流れる―――それでも、確実に違う生き物なのだ。
「涙が止まったな」
 手品でも見ているような気分だった。
 しばらくぼんやりと傷を眺めてから、陛下の顔に視線を移す。
 陛下は苦笑いしていた。
「泣かせるつもりではなかったのだ」
「…」
「ただ少し、意地悪をしてやろうと思っただけで」
「…なにそれ」
「君が頑固だからさ」
 陛下は眉を上げると、再びソファに身を沈めた。
 足下に落ちた短剣を軽く蹴る。
「どうして、泣いていたの?」
「…」
「なにがそれほどまでに怖かったの?」
 陛下の言葉に、勇者も考え込む。
 自分でも正体がよく分からない感情で、上手く言えない。
 ただ―――
「…あ、あんたが、凄く強い力で押してくるから」
「だから?」
「だからその、し…、死んじゃうかと思って…」
 尻すぼみに言う勇者に、陛下は「ふうん?」と唸った。
「君はなにをしに来たのだ」
「…」
 黙る娘にまずいと思ったのか、陛下は声の調子を優しくした。
「だから僕は最初から、大人しく帰れと言っているのだ」
 言いながら、腰を浮かせて陛下はソファの端に寄る。
「お座り」
「…いいよ」
「目の前でいつまでも立っていられると、僕が落ち着かない」
 やや強引に手を引かれ、彼の隣に座らされた。
 そんな場合でもないのに、うっとりとするような香りが鼻をくすぐる。
「殺さずに、どう倒そうと思って来たの?」
「…刃物で脅かせば、言うことを聞くと思って…」
 『人間』の解放や独立を約束させるつもりだった。
「上手くいくと思ったんだ…」
 実際にはまったく上手くいっておらず、勇者は恥ずかしそうに俯く。
 その頭がぽんぽんと軽く叩かれた。
「君の村の者はひどいな。こんな子どもを一人で王都に寄越すなんて」
「子どもじゃない! それに…」
 とっさに言い返して、勇者は力なく続ける。
「それに、黙って出てきたんだ…」
「つまり家出娘か、君は」
 勇者は陛下に肘を当てる。
 それを笑っていなしながら、
「分かっている。故郷の皆のために勇気を出したのだな。君はよくやったよ」
「…まだ私はなにもしてない」
 勇者は陛下の顔を見ることができなかった。
 どうしてこんな、優しいことを言うのだ。
「充分さ、普通の若いお嬢さんなら荷馬車に忍び込めないに違いない」
「馬鹿にしてんのか」
「していないよ。…そうだな、どうしても成果が必要だというのなら―――」
 陛下はくるりと目を回して天井を見た。
「近いうちに地方役人を君の村の領主のところに向かわせよう。理解のある者を選ぶから、根拠さえあれば税が軽くなるかもしれない」
「…」
「君の名を出すように言っておく。立派な功績だぞ」
 陛下の理知的な声がじわじわと頭に染みこむ。
 魔族を倒すことはできていない。でも、減税の可能性だって夢のようだ。
 いつもの地方役人は高慢が服を着ているような男で、天候が悪くても、流行病で働ける村人が少なくても、同じように高い税金を要求してくる。
 勇者の心がぐらつく。
「…戦ったことになるかな、私」
「なるとも。減税の陳情は日に何百通と送られてくる。その手の訴えはまず僕のところまでは回ってこないし、仮になんらかの理由で目にすることがあっても、僕だってすべての減税を許可しているわけではない」
 つまり、特別に厚い取り計らいということだ。
「―――どうして?」
「君が勇敢だったからさ。ここ数十年、勇者など乗り込んできたことがない」
 もっともらしく言うが、陛下の目はにやにやと笑っていた。
勇者は半眼になる。
「間抜けで悪かったわね」
「僕そんなこと言っていないよ」
「腹立つ・・・」
 キラキラと音がしそうな笑顔を振りまく陛下に再び肘を当てた勇者だったが、ふと真顔になる。
「ほんとに、どうして?」
「うん?」
「あんた、なにを考えてるの?」
 魔王といえば、悪の化身だ。
 先の大戦で多くの『人間』…あるいは、魔族の命が失われたことはおとぎ話ではない。
 証拠に『人間』たちは辺境の村に閉じ込められ、今日も辛い肉体労働を強いられている。
 本当はいい人でした、などということはありえない。
「あんたが本物の魔王なら…悪い奴なのは確かよ」
「そうだね」
「綺麗な顔して誤魔化そうったって、そうはいかない」
 勇者の中で疑問が渦巻く。
 そう、この男は最初から優しかった。
 一目で『人間』の娘だと分かったはずなのに、迷い込んできた猫の子でも相手にするような素振りだった。
「あんたは…人殺しだ。悪い奴だ」
「そうだね」
 陛下は静かに頷くだけだ。
 勇者は彼の金の瞳を見返した。
「それなのに、どうして? なんで私を匿ってくれたり、お菓子をくれたり…減税だって…」
 陛下はじっと自分に向けられた瑠璃色の瞳から目を逸らさず、しばらく無言だった。
 羽毛が積もる音さえ聞こえそうな静寂が続いて、
「…僕は退屈しているんだ」
 陛下はふと笑った。
 美術品のような顔に似つかわしくない、疲れた老人のような微笑みだった。
「どういうこと?」
「君が面白かった。ただそれだけだ」
 なおも勇者が納得できない顔をすると、陛下はショコラの空き箱に目をやった。
「このチョコレート美味しかっただろう?」
 突飛な話題に鼻白みながらも、勇者は頷く。
「う、うん」
「でも、もし、もう一箱やると言われたら?」
「う、嬉しいかな…?」
「バケツいっぱいやると言われたら?」
「…うーん…」
「明日も明後日も、その次も、毎日ずっと、好きなだけ食べられるとしたら?」
 想像して、勇者は苦笑う。
「…考えちゃうね」
「そう、この小箱ひとつきりだからこその魅力がある」
 陛下は静かな声で言うと勇者に目を戻した。
「僕は甘いお菓子が大好きだ。そして毎日周りにはチョコレートの山。もちろんすべて僕のもの。これが僕の日常」
 人も物も権力も、すべてを手に入れた男はため息をついていた。
「言い訳はしない。僕は悪い奴だ。君の言うとおりね」
「…」
「でも、世界統一をして初めて知ったこともある。万事が自分の意のままというのは…生きているのだか死んでいるのだか、分からなくなるということなのだ」
 ずいぶんと、感傷的な言葉だった。
「…身勝手な言い草ね。多くの『人間』を踏みつけにしているくせに」
「そうだな、それは事実だ」
 勇者は下唇を噛んだ。
 なんという許しがたい態度だ。
 『人間』を支配しておいて、自由が退屈だとは。腸が煮えくりかえり、思わず感情的な言葉を―――
「…だから、死のうとしたの?」
 勇者の口から飛び出してきたのは自分でも予想だにしない問いだった。
ぎくりとする彼女の正面で、陛下も目を丸くする。
「なんだって? 誰の話だ?」
「いや、だから、」
 触れずにおこうと思っていたのだが、言ってしまったからには仕方がない。
「あんたがさ、さっき、バルコニーで…。ど、毒を飲もうと…」
「していないよ」
「嘘つけ! 見てたんだから!」
 勇者が顔を赤くして叫ぶと、陛下は「しっ」と短く注意してから首をひねる。
「あ…、もしかしてアレかのう」
 のんびりとした調子で陛下は件の毒の話をする。
「そう、それ!」
「確かに君たちには危険なものだな」
 そう言って、陛下は立ち上がって壁際の大きなチェストに向かうと、なにやら手にして戻ってきた。
 再び隣に腰掛ける彼を見た勇者は目を瞠る。
「それ…」
 水晶を丁寧にカットした、玉ねぎに似た形。それでいて、瓶の口は水鳥の首のように細長い小瓶。
 陛下は面白そうに勇者を横目で見てから、素早く小瓶のふたを開けると一滴舌の上に垂らしてみせた。
「!」
 勇者が止める間もない。
 青ざめる勇者をよそに、小瓶をテーブルに置くと陛下は気持ちよさそうにソファに身を預けた。
「…だ、大丈夫なの」
「うん」
「し、死なないの…?」
「うん」
 頷く彼の頬が、心なしか赤く染まってきた。
だが、それだけだ。
「あー…、さすがに原液は効くの…、もう僕も年だな…」
 薔薇色の頬で陛下は笑う。
「これは酔い薬だよ、勇者」
「…」
「普通のアルコールだと、飲んですぐに無害化されてしまうので僕は楽しめないのだ。だから酔いたいときはこれを使うのさ」
 勇者は絶句するしかない。
 なんという体のつくりなのだ。
「従者のほとんどは阿片を使う程度だけどね」
「へえ…」
 呆然と呟く勇者の様子をしばらく面白がっていた陛下だったが、ふいに改まった声を出す。
「しかし、やはり君は少し変わっているな」
「…」
「僕を助けようとしてくれたのだろう」
 からかうような調子ではなかった。
 だからこそ勇者は恥ずかしくなる。
「見当違いだったけどね…」
「そんなことは問題ではないよ」
 陛下は微笑んで勇者の手を取る。
 彼の手は先ほどより、少し熱くなっていた。
「!」
「君、本当に故郷の村に帰りたくないの?」
「…出てくる前にちょっとね。減税の話は嬉しいけど、すぐには帰りづらいんだ…」
「ふむ…」
 陛下は勇者の手を放さない。
 無理やり振りほどきたいような、このままでいたいような…複雑な乙女心に体を硬くする勇者に、
「なら、少しだけ城に留まってみるか?」
 陛下はにやりと笑って、提案したのだった。