6月30日、大村競技場でトラックレース大会が開催された。この日もいつも通り、高校の正門前に午前9時に陸上部は集合予定であり私は既に正門前に着いていた。しかし、紗英の姿が見当たらなかった。私はバスの中で紗英のことを心配していた。すると、携帯に紗英からのメールが来た。「修くんへ。ごめんなさい。お母さんと一緒に競技場まで車で向かうね」私はメールを見て少し安堵した。バスは約1時間後に大村競技場に着いた。バスを降りて競技場内の練習広場で各選手がウォーミングアップを始めた。この日の天気は曇りであり幸いにも雨などは降らなさそうな天気だった。そして、陸上部が競技場に着いてから1時間程遅れて紗英が到着した。
「大丈夫か?」
私は紗英のことが心配で声をかけた。前日に体調が悪そうだったので余計に心配だった。
「ごめんね。昨日、寝る前に少し体調が悪かったんだけど、朝になると落ち着いたから大丈夫」
競技場の正面玄関口の前で、私と紗英は2人きりになって彼女はユニフォーム姿になった。私は彼女のジャージを受け取った。
「修くん」
「どうした?」
紗英は少し眉を困らせたような表情で私を見つめてきた。
「私、アシックスの靴、右足の方だけ学校に置いてきちゃった。バカだなー。遅れてバタバタしてたから途中で気が付いたの」
「なんだ、そんなことか。仕方ないよ。練習用の靴だって十分にいけるさ。そんなに大差ないから気にするなよ」
「ありがとう」
私は紗英に優しく言った。紗英も微笑んで返事をした。彼女はその場で一旦しゃがみこみ、靴の紐がしっかり結ばれているかを確認した。そして、少し深呼吸をした後、試合会場の方を見つめスタート場へ向かおうとしていた。
「紗英、とにかく無理するな。気を楽にしてお前らしく走れよ」
「うん。分かった。頑張るよ。ちゃんと観ててね」
紗英は落ち着いた様子で走って会場内へ向かっていった。すると、彼女は急に立ち止まって私の方を振り向いた。
「修くん!」
「どうした!?」
私は立ち止まった紗英に向かって言った。すると、紗英は私のもとへ走ってきて私に抱きついた。私は一瞬戸惑い、とても恥ずかしい気分でビックリした。
「紗英?」
紗英は顔を赤らめながら私の顔をじっと見つめ、そして微笑みながら言った。
「修くん、私の夢はね、修くんと同じ大学に入って一緒に陸上をすること。もし、修くんが箱根駅伝に出ることができたら必ず応援しに行くよ」
紗英はそう言うと私のほっぺにキスをした。彼女の目はなぜか潤んでいた。
「修くん、大好きだよ! じゃあ、行ってくるね!」
紗英は私の身から手を離して元気よく走って会場内へ入っていった。私は少しの間、固まったような状態だった。走っていく彼女の後ろ姿がだんだん離れていき、私は大声で叫んだ。
「紗英、気をつけてなー!」
私は恥ずかしさを紛らわすために大きな声を出して気を落ち着かせようとした。そのまま観客席に移動し、1人で座っていた。紗英は首を左右に振り、手足を動かしながらウォーミングアップをしていた。いよいよレースが始まった。序盤まで、紗英の走りは安定していた。先頭集団から3番目の位置をキープしたまま、彼女のフォームは滑らかで美しかった。トラックレースというのは観客席からフォームがどういう状態か良く見えるのだ。1000Mまでは、3分40秒と順調な滑り出しだった。レースは同じような展開で2000Mまで進んで、紗英が少し前へと出た。私はこの時、周りのペースが落ちたのだと思った。だが、さらに一周400M進んだ後、いつもとは何か違う紗英の走りを確信した。彼女は既にスパートをかけていた。私は思わず立ち上がり叫んだ。
「紗英、今日は5000だぞ! まだ3000過ぎだ! もうちょっと待て! ラスト1000からが勝負だ!」
私は立ったまま不安げに彼女の走りをそのまま観ていた。私の声が紗英に届いている様子はなかった。そして、4000Mを過ぎて紗英は最後のスパートをかけ始めた。この時、私には、遠くの空で雷が光るのが見えた。
「ぶれるな! 肘がぶれたら終わりだ! きちんと直角に! 歩幅を広げて!」
紗英は懸命に走っていた。もはやフォームはグチャグチャに乱れていた。ゴールまであと200Mとなり、紗英より前を走っていたランナーは3名いた。1位、2位の選手がそれぞれごくわずかな秒差でゴールした。紗英ともう1人のランナーが3位を争いながら走り続けゴール手前に差し掛かった。そして、ほぼ同時にゴールしたため、詳細の判定を見ないと順位は分からなかった。その時、私にはランナーの分身が見えたように感じた。しかし、それは錯覚だった。よく見ると、一人のランナーが倒れた。その倒れた選手は紗英だった。彼女はゴールした瞬間に倒れてしまったのだ。そのまま動く様子がなく彼女はトラック上に倒れこんだままだった。もはや、私も紗英本人も、この時の彼女のタイムなど知る由もなかった。
「清少! 大丈夫か!?」
真っ先に紗英のもとに駆けつけて行ったのは松永先生だった。
「清少!」
陸上部の皆も、松永先生の後を追うようにして紗英のもとに駆けつけて行った。先生やチームメイトの叫び声が広まった。私は、この時、一体何が起きたのか全く理解できなかった。ただ、はっきりと覚えているのは、紗英が倒れた瞬間、まるで自分自身が倒れてしまい絶望に陥ってしまう感覚であった。私は、皆より10秒くらい遅れて急いで紗英のもとへ駆けつけていった。
「紗英―!」
私は低い大声で紗英の名前を叫びながら全力で走って彼女の元へ駆けつけた。全身が震えていた。右足を引きずりながら走った。もはや右足の痛みの感覚など無かった。ただ、不慣れな走り方をしながら紗英の元へ駆けつけていったのだ。倒れている紗英は全く動く様子もなく意識も無い状態だった。
「おい! 紗英、しっかりしろ!」
私は紗英の体をゆすり彼女を起こそうとした。
「佐藤、やめろ! 無理に体をゆすったら駄目だ!」
松永先生が怒るようにして私を止めた。そして、先生が叫んだ。
「ダメだ、早く救急車を呼べ!」
約15分後に、遠くから救急車のサイレン音が聞こえてきた。会場全体がどよめいていた。この日の試合は一時中断となり、他校の選手たちも紗英のもとに駆けつけて心配そうに彼女を見守っていた。私は、再び、遠い空に雷が光るのを見た。