私のクラスは3年1組だった。紗英も同じクラスであり、3年間クラス替えは無かった。当時、担任だった服部(はっとり)先生は数学の教師であった。先生は少し白髪交じりで目が細くつり目気味であり、いつも鼻の下に髭を生やしていた。普段から早口で話しとてもクールな印象であったが、冗談がとても面白い先生だった。よく生徒に不意に問題を出しては4択で答えを選ばせていた。
「佐藤、サインの2乗とコサインの2乗を足したらどうなるか? A、みかん B、りんご C、バナナ D、1」
「佐藤、Aって言え、Aって」
私の隣の席に座っていた仲の良い男子が小声で私に囁いた。クラスの皆が私の方を見てにやにやしながら私が答えるのを待っていた。
「Aです」
私は恥ずかしそうに答えた。 
「ほぉ、Aか… ファイナルアンサー?」
服部先生が目を細めて私を睨んだような表情で言った。
「ファイナルアンサー!」 
「バカか!」
教室中に笑いが起きた。こんなユニークな先生だったから、皆、先生のことが好きだった。服部先生の数学の教え方はとても上手で熱心であり、1組の数学の模試等の成績は全国平均と比較して上位であった。
 6月も後半に入り梅雨のシーズンとなった。晴れという快晴がない日々が続いたが、かといって、雨も小雨ばかりで決して本振りの雨が降らない空梅雨であり、もどかしく感じていた。中間テストや模擬試験が重なって行われ、生徒だけでなく先生達も忙しい時期だった。高校3年生にとっては進路選択のためにも重要な期間であった。3年生になると教科によっては教科書の内容を全て終えてしまうものもあったため、時間割の中に自習時間も増えた。6月は、その自習時間を設けている間に、生徒と親と担任による3者面談が数日間の間で行われた。
「修ちゃん!」
高校の玄関内にある待合席に座っていた母が私を見つけた。普段、仕事に行く時はジャージ姿でいることが多い母であったが、この日はいつもと違って黒のフォーマルなスーツ姿でメークも綺麗にした姿であった。校舎の1階にある職員室の隣に教員用の会議室があり、面談はその部屋で行われた。部屋は真っ白な明るい印象で綺麗な感じであり、黒板ではなくホワイトボードが置かれていた。当然、生徒がこの部屋に普段入ることは無いため、部屋がとても新鮮に感じた。服部先生は私と母を席まで案内し、先生は机の上に先日行われた中間試験の成績結果と全国模試の成績結果の一覧表を広げて置いた。その一覧表を見ると、学年での皆の成績の結果がだいたい分かってしまうのだ。私は、ふと紗英の成績が少し悪くなっていることに気が付いた。紗英の模擬試験の成績はいつもクラスの上位であったため、クラスの中間ほどの成績に下がっていたことに、はっきりと違和感があったのを覚えている。
「先生、なんで清少はこんなに成績落ちてるの?」
私はあまりにも気になったので、思わず服部先生に質問した。
「清少はね、特に問題がある訳ではないんだけど、最近、試験中に手の震えというか緊張がほぐれない状態になると言っていた」
私は先生の言葉を聞いてからしばらく下を向いたままになり、同時に紗英のことが心配になった。
「佐藤は、だいぶ成績が良くなったな! 今は怪我の影響で陸上の練習が少し落ち着いているから、逆にチャンスだと思って勉強に打ち込めば、きっと志望校に行けるよ!」
服部先生は私と母の両方の顔を見ながら笑顔で力強く言った。
「数学と陸上だけが取り柄ですからね。本人は国立大学を目指しているようですが、今の成績で志望校にいけるのかどうかは正直想像もつきません」
母は私を見るなり苦笑いしながらも私の成績に対して少し不安そうな様子で答えていた。
「お母さん、佐藤君は本当に今年の陸上が楽しみですよ。今はなにせ怪我との戦いですが、きっと最後に大活躍してくれると信じています。佐藤、頑張れよ!」
服部先生は私を励ますように言った。
「先生、ありがとう。いろいろと大変だけど頑張るよ!」
私は服部先生の言葉に勇気をもらい、本当に何事も頑張ろうという強い気持ちで返事をした。20分程の面談が終わり、私と母は先生に一礼して会議室を出た。私はそのまま校舎の玄関まで母を見送った。
「修ちゃん、お母さんは、今夜は夜勤だから、ご飯は家に焼きそばを作ってあるよ。レンジでチンして食べてね。みそ汁はコンロの上の鍋の中だよ。じゃあね」
「うん、分かった。お母さん、気をつけてね」
「ありがとう。修ちゃんも練習無理をしないようにね」
母はそう言って車に乗り込み、職場に向かっていった。