5月下旬、もうすぐ瀬野高校の体育会が開催される時期であった。紗英と紗英の同じクラスの友達が女子3人集まって昼休みに教室で話していた。
「ねぇ、紗英、クラス対抗リレー、アンカーで出てくれる?」
「えっ? 私がアンカー走るの?」
「うん、紗英のスパートしか2組には勝ち目ないよ。佐藤君はあの状態だからさ」
私が足を怪我していなければ、私がリレーのアンカーを走るはずだった。
 5月31日、晴天の中で瀬野高校の体育会が開催された。学年ごとのクラス対抗リレーは体育会の最後のプログラムであり、いよいよ大トリである高校3年生のリレーが始まった。当時、2組はサッカー部や陸上部の短距離選手などが集中して所属していたため優勝候補であった。私と紗英は同じクラスであり、1組であった。生徒たちの家族だけでなく、県内からいろんな他校の生徒達や関係者等が観に来ており、レースが始まると大いに盛り上がった。1クラスごとに代表で五名が出場し1人あたり200Mを走った。1組と2組の争いは凄まじく終盤につれて歓声はさらに上がっていった。いよいよ、もうすぐ1組のアンカーである紗英の出番となりつつあった。紗英は腰を曲げてバトンが渡ってくるのをじっと待っていた。少し表情が強張っており緊張している様子だった。そして、アンカーである紗英にいよいよバトンが渡されようとしたその瞬間、紗英は不意にもバトンを落としてしまった。一瞬、瀬野高校の運動場内にはどよめきが起こった。バトンを落とした僅かなタイムロスが命取りとなってクラス対抗リレーは2組が優勝となり、1組は2位となった。
「ごめんなさい! 本当にごめん!」
運動場の端っこにある鉄棒付近に1組の生徒達は集まっており、紗英はクラスのみんなにただ平謝りしていた。皆が紗英のことを笑っていた。それは、決して彼女を馬鹿にしたつもりではなく親切心からであった。
「あんたは天才かよ!? まさか、この本番でバトンを落とすとはね。紗英、駅伝大会では絶対にタスキ落としたらダメだよ!」
紗英と仲の良かった女の子が笑いながら紗英を励ましていた。
「はい、気をつけます…」
私は、男子仲間と集まって紗英のことを話していた。
「あいつ、やっぱ長距離向きだよな。俺さ、紗英の最後のスパートが好きなんだよ。スタートは弱いけど3キロくらいまで溜めておいてさ、最後のゴボウ抜きは間違いなく全国レベルだぜ。元々、ピッチが小刻みだったから、俺がフォームを教えたんだ」
私は紗英の走りの特徴を何でも知っているかのように皆に話していた。
「さすが、修先生のおかげだな。清少のスパートが全国レベルなら修のスパートはオリンピックレベルだよ!」
皆が私を持ち上げるようにして言った。
「まぁ、オリンピックは夢のまた夢だけどな。でも、箱根駅伝の往路の5区とか走ってみたいぜ!」
私は夢を語るようにして話していた。高校生活最後の体育会はクラス仲間全員で楽しく盛り上がって無事に終わりを迎えた。高校時代の良い思い出だった。その日の夕方は気の合う仲間同士でそれぞれ集まって打ち上げを行い、私と紗英は別のグループ同士でそれぞれ集まっていた。
 夜の19時頃、私は瀬野駅の近くのファミレスで集まっていた仲間と打ち上げを終えた後、携帯電話を取り出して紗英の携帯に電話をした。
「もしもし」
紗英が電話に出た。声が普段より少し低く聞こえた。
「修くん、今どこにいるの?」
「俺は駅の近くだよ。紗英は?」
「私、学校にいる」
「そうか。なぁ、紗英、今日はMVPだったな!」
私は電話で紗英をからかうようにして言った。一瞬、彼女の鼻息だけが電話越しで聞こえてきた。普段、私がからかわれることが多かったために、その日はなんだか弱い紗英を見れたような気がして思わずからかいたくなったのだ。
「うるさい」
「ごめん。怒らないでよ」
私は、少し笑いながら電話越しに紗英に謝った。彼女は黙ったままで返事をしなかった。
「ねぇ、怒ってるの?」
「違うもん」
携帯電話で話す紗英の声がだんだん遠くなっていく感じだった。というか、雑音は聞こえるものの声が全く聞こえなくなった。
「ねぇ、紗英、聞こえる? 電波悪い?」
私が問い詰めた直後に電話が切れた。私はすぐに紗英にメールをした。彼女からの返信はなかなか返ってこなかった。腕時計を見ると時刻は19時半だった。辺りはすっかり真っ暗になり私は1人瀬野高校へと歩いて向かった。夜の風が少し爽やかに吹いていた。紗英は高校の正門近くにある時計台の下のベンチに1人座っていた。
「紗英?」
紗英は私に気が付くと少し恥ずかしそうにしてわざと目をそらした。彼女は1度家に帰っており、長袖の紺色のチェックシャツとジーンズ姿だった。
「からかってごめん。怒ってるんだろ?」
紗英は少し黙ったままだった。すると、両手を顔に当て顔を隠すようにして話しだした。
「違うよ。あんな姿見られたら恥ずかしいに決まってるでしょ」
「ごめん。頼むからそんなに怒らないでくれ」
私は紗英の機嫌をとるように優しく接した。
「怒ってないもん。ねぇ、修くん、カラオケに行きたい。今から一緒に行こう」
紗英は顔に両手を当てたまま、指の間から目だけ見えた状態で私の顔を見つめて言ってきた。
「あぁ、いいよ。たまにはストレスも発散しないとな」
「ほんと? やったー!」
紗英はそれまでの暗い表情から急に明るくなり、ベンチから立ち上がってその場でジャンプしてはしゃいでいた。私は紗英が元気を取り戻してくれたようで安堵した。
「ねぇ、その前にさ、少し左足がしびれるからマッサージして」
紗英が甘えたような声で言った。
「分かったって。ったく、しょうがねーやつだな」
私はしぶしぶ返事をした。それでも紗英のわがままには何でも応えてしまっていた。私は、そのままベンチの上でうつ伏せになった彼女の左足の脹脛と膝の裏側をジーンズの上からマッサージした。次の日は体育会の振替休日のため、学校も陸上の練習もお休みだったので、私は紗英と一緒に街に出て楽しく遊んだ。